3-6 無自性

 3-1 で紹介しました不垢不浄(ふくふじょう)を思いだして下さい。

 世の中にはきれいとか汚いとか、善も悪も、損も得もないのです。私たちが認識する対象にそのような特性が具わっているのではありません。そのことを仏法では「無自性」といいます。

 私たちは罪を犯した犯罪者を悪人呼ばわりしたりしますが、本当は善人も悪人もいないのです。私たちが勝手にそのように決め付けて見ているだけで、どんな罪を犯した者であろうと仏様から見たら救わずにはいられない可愛そうな衆生なのです。凡夫の境涯から見たら悪人と映っても仏の境涯から見れば哀れな衆生と映るわけです。実は見る人の心が善や悪、綺麗や汚い、損や得を造り出しているのです。

「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」『三世諸仏総勘文教相廃立』

  世の中の全ての事象は私たちの心が造り出しているのです。事象それ自体には善や悪の特性は無く無自性なのです。なのに日蓮正宗では「戒壇の御本尊様には仏性が備わっている」と主張します。 大聖人様は上に示しました御書の中で「 仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり 」と仰せです。

 創価学会は南無妙法蓮華経は宇宙の法則だと思い込んでおります。妙法が我が身より外の宇宙の方へいってしまっています。

 この二つの団体は共にこの「無自性」という大事な教えを理解することも無く互いの存在を「悪」とみなし醜い言葉で互いを激しく罵り合っています。

 何故「無自性」を理解出来ていないのかといいますと、無自性を説く「不垢不浄」は爾前経である般若心経の中で説かれている教えだからです。

 法華経以前に説かれた教え(経典)を爾前経と言うのですが、創価学会や日蓮正宗では法華経の『方便品』の中に示される 「正直捨方便」の一節をとり上げて、方便の教えである爾前経は捨てるべき教えであって法華経だけを学べば良いと思いこんでいるのです。

http://monnbutuji.la.coocan.jp/yougo/7/711a.html  日蓮正宗の教学


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