1-3.人の見え方

 例え話を一つ聞いてください。

 パン屋さんでお金を払わずに1つのパンをふところにしまい、持ち帰った男がいたとしましょう。この男は、社会的に見れば明らかに窃盗犯です。彼のことを人は泥棒と罵るでしょう。しかし、その男には、幼い子供がいて飢えに苦しむ我が子の姿を見るに耐え兼ねて、実はパンを盗んでいたのでした。この子供にとってはこの男は、とても優しい父親であったのです。

 そんな男のことをあなたは善人だと思いますか? それとも悪人だと思いますか?

 社会的にみれば罪を犯した犯罪者、しかし子供にしてみれば優しい父親。見る側の人が変わることによって、同じ人物でも全く違った印象の人物となります。
 ですから仏法では、ものごと全てそれ自体には実体である「我」も本質である「自性」もなく、見る人(関わる人)が縁となって仮に佇む姿がそこにあるだけ(仮)ですよと説くのです。その事を「縁起の法門」といいます。

 また関わる人が変われば人物の見え方も変わってきますので安易に人を悪人だとか善人だとか断定してはいけませんよと、お釈迦様は人々に諭したのです。その善悪を断定する判断、その判断をあやまればそれが因となって自身の心の中に苦しみを作り出してしまうからです。

 そのことを解り易くお伝えする為に、先ほどお話しました「パンを盗んだ男」の話を江戸時代という時代背景に置き換えてお話してみましょう。

 時は江戸時代、お侍さんが下町の長屋を通りかかった際に、「泥棒―!」という叫び声とともに薄汚い格好の男がお侍さんの方へ必死の形相で逃げ込んできました。

 お侍さんは刀を抜きその薄汚いコソ泥を一刀両断で斬り捨てました。江戸時代ではこういった光景はごくごく当たり前の事だったと思われます。斬り捨てられた男は自業自得ということで簡単に片付けられる出来事なのでしょう。

 しかし翌日、そのお侍さんが隣町の長屋を通りかかった時、幼い女の子が無造作に投出された男の亡き骸にしがみ付き「お父さん!お父さん!」と泣き叫ぶ光景に出くわします。よく見るとその亡き骸は昨日自分が容赦なく斬り捨てたあの盗人でした。

 お侍さんは後で知ったのですが、実はこの幼い子供が飢えに苦しむ姿を見かねて、父親が人様の物に手をかけてしまったのです。盗人とはいえその父親を斬殺してしまったお侍さんは、自分は何という取り返しのつかない誤った判断をしてしまったのかと、後悔の念に苦しめられます。

 誤った判断が苦しみを生み出すという極端な例え話ですが、私たちの日常生活の中でも安易に他人のことを悪人だとか決め付けてその人の事を誹謗・中傷したりしがちです。本当はそんなに悪い人でもないのに自分があの人は悪い人だと勝手に決め付けているのです。そして誹謗・中傷する行為は、結局自分に帰ってきて自分が苦しむ結果を生み出してしまいます。

 仏法では、人々の苦しみの原因は「身口意の三業」によるものと説かれています。その一つが口で作られる業なのですから、軽はずみで他人の事を罵る行為は慎みたいものです。

 そんな事を言いましても、「相手が明らかに悪い人なんだから罵るんです」と言う方がいますが仏法から見ればそれも愚かな行為です。

 また、解り易く別の例え話で説明しましょう。


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