人には様々な癖があります。
怒りっぽい人、喧嘩っ早い人、のん気な人、慎重な人、鈍感な人、と書き出したらきりが無いほどに人には様々な癖があります。
良い癖なら問題ないのですが悪しき癖の場合、それが元となって「正しい判断」が出来ずに苦しみを招き入れる事にもなり兼ねません。
そんな癖の中に今、現代人が最も侵されている悪しき癖があります。 それは「客観認識」です。物事を客観的に捉えてしまう癖で、その癖は世界中に広まっています。
日本にその癖が広まり出したのは明治初期、そう文明開化の波に乗って西洋から一気に押し寄せてきました。
物事を客観的に認識する事で科学や哲学、医学などが成り立ちます。文学は主観の世界のように思われるかもしれませんが、その主観を他者に伝える手法が言葉という客観法なので、文学といえどもやはり客観認識の枠に収まります。
あなたが果物を食べて「おいしい(主観)」と感じたその「おいしい」を100%誰かに伝えられますか?
同じ果物をその誰かが食べてもその人の「おいしい」とあなたの感じた「おいしい」は微妙に異なります。感性が一人一人異なるからです。個々人がそれぞれの感性で感じ取った主観は人に伝えようとした時、共通認識語である言葉に置き換えられます。言葉は、この字はこのように読みますという定義付けがあって成り立つ客観認識法に他なりません。
客観認識法は物事を客観的に観察しその様の違いに着目するところから始まります。科学におけるAという元素とBという元素の違い、数学における1と10の数の大きさの違い、国語における「あ」という文字と「い」という文字の違い、医学における臓器の働きの違い、音楽における「ド」という音と「レ」という音の音程の違い、といった具合です。
我々人間はこのように物事の違いを見極めることで様々な文明を築き上げてききました。その「物事の違い」即ち「分別」によって客観認識は成り立っています。
「分別」と書けば論理学的に聞こえますが「差別」と書くと道徳的に聞こえて人種差別や、男女差別、貧困の差別などの偏見的なイメージが思い浮かびます。人間にとって物事を分別する心は、様々な文明をもたらし便利さを与えてくれる反面、差別が生み出す不幸の原因とも成りえます。
現代社会が抱えているいじめの問題などはまさにその差別する心から起きていると言っても過言ではないでしょう。「相手の身になって考えなさい」と言われても「だってあいつ気持ち悪いんだもん」と客観的に写る相手の姿や振る舞いを差別していじめを行う子供達。
教育が進んだ現代社会において、人々は医学や化学や哲学などの知識を学び教養を身につけることで豊かな暮らしを築いてきました。しかしそれは同時に物事を客観的に見てしまいがちな「客観癖」を身につけてきたことでもあるのです。