1-4.人の心

 今回は、明らかに罪を犯した加害者とその加害者が犯した罪に苦しむ被害者の関係で例え話をしてみます。

 交通事故で愛する我が子を亡くした女性がいたとします。彼女は加害者のことをひたすら憎んで生きていました。しかし仏法にめぐり合い「因果応報」を学ぶことで、自身の苦しみの原因は加害者にあるのでは無くそのような宿業を過去世でつくった自分自身にあるんだということを教えられます。

 お題目を唱えていく中で、「ああ、自分の宿業なんだ・・・」と自覚できた時、最初は憎くてたまらなかった加害者に対する思いが次第に消えていき、わが子が命をもってそれを教えてくれたんだとさえ思えた時、憎しみの念で一杯だった人生が我が子への感謝の念の人生へと転換されていきます。

 そして、加害者に対する憎しみが消えた彼女は、加害者の事をどう思うのか。加害者も人の命を奪ってしまったという重い宿業を刻んでしまった訳ですから、そう思うと彼女はその加害者を救ってあげたいとさえ思うのです。

 これが仏法です。

 大聖人様も自身を迫害し続けた平左衛門尉頼綱を真っ先に救ってあげたいと言われた話は皆さんもご存知でしょう。

 なのに何故、創価学会と日蓮正宗は、互いに醜いまでに相手の事を汚い言葉で罵り続けているのでしょう。

 それは、自身が勝手に作り出している「実体」にとらわれてしまっているからです。客観的に捉えて認識できる姿が「実体」です。しかし、そのような捉え方(客観認識)は、真実ではないとお釈迦様は否定し、縁起の法門によって仮に存在しているに過ぎない(仮)といって「実体有り」を説くを六師外道を徹底的に破折しました。

 先に述べましたように現代人は、普及した現代教育によって客観的に物事を捉えてしまう「客観癖」が身にしみ込んでしまっています。その為、自分たちは気づいておりませんが物事を「実体有り」の外道義で捉えてしまい、誤った判断に陥ってしまっています。

 互いに相手を「悪」と決め付けて誹謗中傷をくり返す姿は、自身の心の外に悪を作り出す「心外の法」であって、 大聖人様が十如是事 で仰せの「我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき」 の御金言に背いています。相手を悪と見るのは「我有り」を説く外道の見解であって、 一代聖教大意 の中でも「 外道は一切衆生に我有りと云い仏は無我と説き給う 」と大聖人様は仰せです。

 このように心の外に悪を見出す仏法実践者を 「故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教還同外見と釈せり」 と 一生成仏抄 で 仏法を学んでも還って外道と同じであると 厳しく戒められています。


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