3-7 正直捨方便

 法華経の方便品第二に示される 「 正直捨方便 」の一節は、「正直に方便の教えを捨てて」と読むのですがそれを「法華経以前の教え(経典)を捨てなさい」とお釈迦様は教えられているのだと思い込んでいるのが日蓮正宗及びその教学の流れを汲む創価学会です。

 この一節は、最低でも以下に示す「舍利弗當知 我見佛子等」から読まなければ正しい理解は得られません。

舍利弗當知 我見佛子等 志求佛道者 無量千萬億
咸以恭敬心 皆來至佛所 曾從諸佛聞 方便所説法
我即作是念 如来所以出 為説佛慧故 今正是其時

舍利弗當知 鈍根小智人 著相憍慢者 不能信是法
今我喜無畏 於諸菩薩中 正直捨方便 但説無上道
菩薩聞是法 疑網皆已除 千二百羅漢 悉亦當作佛

【現代語訳】

舎利弗よ、よく知りなさい。機根の鈍い者、智慧のない者、様々な物に執着する者、おごり高ぶった者達はこの教えを信じることはできない。今、私は喜んでおり、畏(おそ)れはない。これらの菩薩たちにむかって、正直に方便を捨ててただ成仏への道を説く。菩薩たちはこの教えを聞いて疑惑の心が除かれ千二百人の羅漢は全員がまさに成仏に至るであろう。

この「正直に方便を捨ててただ成仏への道を説く」は、後で詳しく説明しますが開三顕一の意味を正しく理解出来ていれば本来、一仏乗である教えを声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗に別けて個別に説いてきた教えは方便で用いた説き方であって、本来は一仏乗に集約されて成り立つ教えなので「方便を用いづに正直に(ストレート)に成仏への道を説きます」という意味です。

そもそも、日蓮正宗が言うような「方便の教え( 爾前経 )を捨てて」と解釈するとその前後の文章との関係性が成り立たちません。

「今、私は喜んでおり、畏(おそ)れはない。これらの菩薩たちにむかって、 正直に方便( 爾前経 )を捨ててただ成仏への道を説く。」

 これだと「 今、私は喜んでおり、畏(おそ)れはない。 」の文章がなぜここに入っているのかという違和感が生じて文章の流れが成り立ちません。これは、今まで方便として個別に説いてきた三乗の教えを弟子達がやっと理解する境涯に到達し、法華経を説いても理解出来る境涯に至ったことを喜び、この教えを(理解出来ないが為に)信じようとしない者達 (機根の鈍い者や、智慧のない者、様々な物に執着する者、おごり高ぶった者達) が出ることをもう恐れない。だから方便は用いづに正直に 「随自意」で成仏への道を説きます。 となって文章の流れが成立します。

 そのことを確かめる為に「漢訳経典」ではなくサンスクリット語で書かれたを原典を見てみましょう。「正直捨方便」のところは原典では次のように書かれています

viśāradaś cāhu tadā prahṛṣṭaḥ
saṃlīyanāṃ sarva vivarjayitvā|
bhāṣāmi madhye sugat’ātmajānāṃ
tāṃś caiva bodhāya samādapemi ||132||

【翻訳】
また、その時
すべての臆する心から離れ
躊躇(ちゅうちょ)せず、愉快であり
仏子の中で説き
彼らを覚りへと教化する

 原文には「方便を捨てる」という表現の文章は見当たりません。鳩摩羅什が漢訳する際に、「正直捨方便」と意訳されたのでしょう。サンスクリット語の経典ですと捨てている(離れている)のは、臆する心、躊躇する心であって方便ではありません。


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