3-2 煩悩

 我々は外界の様子を五感によって知ることが出来ます。眼を開くと空の色と大地の色が眼に飛び込んで来ます。耳をすませば小川のせせらぎや小鳥たちのさえずりが聞こえてきます。匂いを嗅ぎわけることで美味しく食べられるものと腐ったものとを識別します。食することで甘いやすっぱいといった味を識別します。触れることで熱い冷たいといった温度の違いを感じます。

 そのように五つの感覚器官を働かせて物事を識別して「知る」という意識につながります。それが我々が通常「意識」として認識している第六識までの表層意識です。これらの意識が遠のくと意識不明の状態に陥ります。そして肉体が死を迎えることで完全に意識は途絶えます。意識はいわば肉体と共に存在しているとも言えるでしょう。

 仏法ではこの意識を意図的に活動停止させる修行法があります。

 瞑想や禅といったものがそれにあたります。なぜ意識の働きを停止させるのかといえば、意識を表層からより深い深層へと向かわせる為です。深層のマナ識やアラヤ識に入っていくことで肉体からの解脱を目指します。

 表層意識から深層意識へと意識を向かわせることで自身を苦しめている因となっている自我意識を認識し、その自我から生じる分別や差別がさまざまな苦しみを生み出していることを悟ります。

 仏教では苦しみのことを「煩悩」といいますが、自我がもととなって我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩が生じます。

 我癡(がち)は自己に対する愚かさで別名を「無」とも言います。人生や事物の真相に明らかでなく、すべては無常であり固定的なものはなにもないという事実(無我)に無知なことです。

 この無明=我癡が根本原因となって,あとの我見・我慢・我愛の3煩悩が生じます。我見(がけん)は自分という我に執着する心で他者と自分を立て別けて見ることをいいます。物事の真実に明らかでない我々凡夫は、本来は「而二不二」である自分と他人とを別視して分別してしまいます。

 他者と自分を分別する心から今度は他者よりも自分は優れている勝っているという自身への慢心、我慢が生じます。

 我慢(がまん)は次の七慢(①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢)からなります。

①慢とは、無意識下にある我という観念により、相手に対抗してしまうこと。

②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。

③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。

④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。

⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。

⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。

⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。

このような我慢が働いて最終的に自己に対する愛着、「我愛(があい)」が深まっていきます。


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