子供のことを「分別が無い」と言いますが、人は分別をわきまえることで大人に成っていきます。しかし仏教では分別というものを良いことと考えていません。自我意識が自分と他者を分別し、その分別から煩悩が生じている訳ですから分別の世界にいることは未だ迷いの世界にあることを意味します。
大人は子供に「物事の善悪をわきまえなさい」と言いますが、善悪をわきまえるということであれば、この行動は善、あの行動は悪、というように頭で判断して識別するのが分別です。 善悪の判断がつくことは一般的には良いことであると考えられますが実際のところ分けられた対象がそのように分かれているのではないと捉えるのが仏法です。
空を説く『般若心経』のなかで「不垢不浄」(ふくふじょう)という言葉がでてきます。「垢つかず浄からず」と訳すことができますが、これは「あらゆるものは汚いのでも綺麗なのでもない」という意味の言葉です。
どういうことなのか解り易く例えてみましょう。
汚い物の一つにお風呂の排水溝があります。掃除して綺麗にしても直ぐに髪の毛やら石鹸カスやら垢やらがこびりついてぬるぬるべとべとになってしまいます。その状態を私たちは「汚い」と目を背けますが分別が無い赤ちゃんはそれを平気でもてあそびます。
「汚い」というのはそれを見た人の頭の中だけに生じる概念で、 ただ髪の毛やら石鹸カスやら垢やらがこびりついているという事実があるだけで、そこに人間が外から意味を付与することで、汚いや綺麗といった主観が混ざり込んでいるだけだというのが仏法の捉え方です。
「汚い」というのは個々人の主観であって感じ方は人それぞれです。縁する人によって見え方も変わる訳ですから仮と観るのが正しい見方(仮観)です。
排水溝を汚いと認識するのは排水溝が汚いからではなく、「排水溝が汚い」と頭が判断したために起こる認識なのです。試しに目を閉じてお風呂の排水溝の蓋を開けてみてください。目を閉じているので何も見えません。何も認識できません。すると排水溝はどうなるか。頭はどう判断するのか。重要なのはここです。
すでに一度排水溝の状態を見てしまっていれば、そのイメージが頭に残っているから汚いという認識が生じますが、赤ちゃんのように排水溝を初めて目の当たりにした場合、汚いという認識が生じることはありません。
排水溝が汚くない。かといって綺麗とも思えず、汚いとも思えない。目を閉じることで頭に認識は生じません。もし物自体に汚い、綺麗といった特性が具わっているのであれば、それを見ようと見まいとに関わらずその物は汚なかったり綺麗であったりするはずです。
しかし実際には、どのような物であってもそれを認識しないことには汚いとも綺麗とも言うことができません。これは当たり前のようでいて実はとても重要な真実なのです。
人間が意味を付与しなければ、あらゆる物に相対的な価値は生まれません。善も悪も、損も得も、綺麗も汚いも、そうした価値は外から付与されているだけであって、そのもの自体に具わっているのではありません。ゆえに分別する思考は頭のなかに虚構をつくり上げる営みであって、分別をするのは未だ迷いの中にあることを意味します。