2-1.分別

 創価学会が説く「一念三千の法門」も日蓮正宗が説く「一念三千の法門」もさほど違いはありません。どちらも人の一念には三千の種類があるといった解説です。

日蓮正宗の一念三千
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/nichiren_kyogi4.htm

創価学会の一念三千
http://www16.plala.or.jp/PC-MURA/ItinennSannzenn.htm

 
 このような解説は種類を指し示しているだけで種類=分別となります。分別とは人間が客観的に認識できる違いを振り分けること(差別)で成り立っています。いわば人間が作り出したものです。

 第一章でお話しました客観癖の正体は実はこの「分別」です。よく幼い子供の事を「分別がない」と言いますが、実は仏法から生まれた言葉なのです。

 お釈迦様は、人々の苦しみの原因は分別にあると気づかれました。分別とは、物事の善・悪とか綺麗・汚い、おいしい・まずい、便利・不便、心地よい・心地悪い等、書き出したらきりがないくらい世の中に存在します。

 人々は昔から暮らしを便利にしよう、豊かにしよう、そう思って様々な分別を作り上げてきました。文字だってそうです。算数も理科・社会、世の中のほとんどのものは分別法でなりたっています。しかし、人間が作り出したその分別が、原因となって人々は悩んだり、苦しんだりもしているのです。

 結婚したけど友達の奥さんの方が綺麗でうらやましいなーとか、あいつの方がいい車にのってやがるとか、もっとおいしい物が食べたいとか。人間の欲は実は分別があるから起きるんだと、お釈迦様は気づかれたのです。

 考えてみてください。生まれたての赤ちゃんには分別はありません。ただお腹がすいた時とおむつが気持ち悪い時だけ泣き叫ぶだけで、それ以外の時は穏やかーな顔をしていますよね。

 赤ちゃんには比べる物差し(分別)がまだ無いから幸せでいられるんです。しかし、成長していくにつれ他人と比較されたり、進学する学校を比較されたり、入社する会社を比較したりで、分別が身について行く程、悩みや苦しみが増えて行きます。

 なのでお釈迦様は、人々からそういった分別を無くしてあげようと考えて、無分別の法を説いたのです。

 そして人々に「この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は無いと思いなさい」と言って物事の見方、捉え方を「分別法」から「無分別法」へと導かれたのです。

 


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