5-5 流転の縁起

 お釈迦様は「永遠の生命」を説く当時のインドにおけるバラモン思想を〝常見〟とし、それに対抗して自然発生した「今世限りの生命」を説く六師外道を中心とした外道義を〝断見〟としてこの両者を徹底的に破折されました。

 この両者は「モノの有る無し」といった世間一般的な考え方(主観と客観)をもととして、「生命の永遠性が有るか無いか」といった生命の本義、本質を考える思想ですが、お釈迦様はその物事の本質を〝無我〟と説きました。

 無我とは、「物事には変わらずに有り続けるといった本質は無い」という意味で、全ては縁によって生じるものであるとして十二因縁からなる縁起の法を阿含経の中で顕します。

 阿含経で説かれる縁起を、小乗の声聞という「仏門に入って最初に得られる境涯」の弟子達は、仏門に入りながらも未だ実体思想からは抜けきれておらず、その為、無我を「完全なる無」だと勘違いし、実体思想の「有る無し」で五蘊を完全に消滅させるという過酷な修行を展開することになります。(灰身滅智)

 この阿含経で説かれている縁起は、此縁性縁起といって「物理や科学の実験」や「医学の臨床実験」のように時間の経過からなる因果の関係性を説いた縁起になります。(実体にもとづく因果律からなる縁起)

 縁起には「流転の縁起」と「還滅の縁起」という相違がありまして、前者を外縁生とし、後者を内縁生とします。縁生によって世界が成立つ外縁生に対し、煩悩から苦しみが生まれるといった内縁生との対比です。

 流転の縁起=外縁生
 還滅の縁起=内縁生

 十二因縁は、人間の肉体がどのような過程を経て生まれ、成長し、老死にいたるかということを、過去、現在、未来の三世にわたって転生する「人間が六道を輪廻する仕組み」が詳しく説かれたものです。この阿含経で説かれている時間経緯から生じる縁起(実体理論)を空理の立場から言えば「此縁性縁起」といい、十二因縁の立場からは「流転の縁起」とよびます。

 「実体・非実体」の立場の空理と違って、十二因縁は〝縁〟を中心に実体のあり様を捉えます。縁起に「此縁性縁起と相依性縁起」の相違があるように十二因縁にも「流転の縁起と還滅の縁起」の相違があり、様々な外縁によって形成されていく「流転の縁起」を外縁生と呼び、自身の心の変化(内縁)から起こる「還滅の縁起」は、内縁生になります。

 此縁性縁起=流転の縁起=外縁生
 相依性縁起=還滅の縁起=内縁生

 内縁はこちらで詳しく解説されていますのでご参照ください。(養老山立國寺さんのHP)
 http://shusse-kannon.life.coocan.jp/budda/budda5.htm#naiengi

 外縁の説明はこちらをご参照ください。(養老山立國寺さんのHP)
 http://shusse-kannon.life.coocan.jp/budda/budda5.htm#gaiengi

 この二つの縁起の相違は、外縁生が時間経緯から生じる因果律で、内縁生が心の変化から生じる因果律です。どちらも因果をもととした縁起の法であることには変わりはありません。しかし、此縁性縁起の外縁生から生じる縁起は、析空と体空でも説明ていますように、実体思想で捉えた縁起です。

 http://mh357.web.fc2.com/kuu.html 析空と体空

 仏門に入っても尚、実体思想(モノの有る無し)から抜けられずにいる声聞の境涯の小乗仏教では実体における真理を悟るのが限界でした。実体における真理とは、科学や物理の実験や医学の臨床実験と同じレベルの真理です。レベルという言い方をしましたのは、真理にも段階があるということです。

 例えば、算数の1+1=2という答えは、数学的には正しい答えです。では、それは真理なのかといいますと、算数を習っていない幼稚園児やアフリカの奥深いジャングル地帯に住んでいる原住民にとっては算数という概念がありませんのでそれは真理とはなり得ません。

 また、そういった原始に近い暮らしをしている人達には物理の概念もありません。ですから引力の法則も知り得ません。しかし、そんな彼等が手に取ったリンゴを離すと地面に向かって落下します。これは自然界に元から備わっている現象なので概念ではなく真理です。

 しかし、近年の物理学にあって時間というものが人間の概念から生じる〝出来事〟でしかないといった学説が唱えられるようになってきました。

【世界のすべては「モノ」ではなく「出来事」でできている】
 https://note.com/tuttlemori/n/n43c4fef567b6

 お釈迦様が説いた〝縁起〟がまさにその〝出来事〟にあたります。物理学が仏法の真理に追いついてきているのです。時間が出来事に過ぎないのであれば、例えば自身が育てて来た息子に向かって「あなたはどちらさんですか?」と言う認知症のおばあちゃんが自身が落としてしまったリンゴを見ても「落下したリンゴ」ではなく、「床に置いてあるリンゴ」でしかないのです。

 引力は「時間の経過にともなう物体の移動」を認識する法則です。脳の記憶という機能が働かないと生じない〝出来事〟なのです。記憶という高度な脳をもっている生き物だけが認識出来る〝出来事〟であって、自然界に備わっている真理ではなかったのです。

 そういったことを考えた時、実体思想で捉えた此縁性縁起は真理であってもそれは「人間の概念の中での真理」でしかないのです。ですからその真理を「仮の真理=仮諦」と仏法では呼びます。これは人間の認識で起こる縁起(外縁)、仮諦の一念三千です。


次へ >>