5-2 常楽我浄

 お釈迦様は、真理とは真逆な教えを説く当時のインドにおける外道の教えを四顛倒として〝常楽我浄〟を示されました。「無常、苦、無我、不浄」を真理とするお釈迦様ですが、大乗の『大般涅槃経』の迦葉品の中では、「如来常住 無有変易 常楽我浄 終不畢竟 入於涅槃 一切衆生 悉有仏性」と説かれて〝常楽我浄〟が四徳として示されています。

  常 – 仏は、常住で永遠に不滅不変である。
  楽 – 人間の苦楽を離れたところに真の安楽がある。
  我 – 一切衆生には仏性がある。
  浄 – 涅槃は清浄な世界である。

 これをもって大乗仏教では〝永遠不滅〟の絶対的存在として〝仏〟が信仰の対象として崇拝されるようになっていきます。しかしそういった「永遠不滅の仏」はお釈迦様が永遠の生命を説くバラモンを外道として破折した〝常見〟にあたります。大聖人様も大乗で説かれる仏を常見ゆえに「厭離断九の仏」と糾弾されています。

 そもそも、インドにおけるお釈迦様の教えは、自らの知恵によって苦悩から超越するという〝悟り〟を人々に分かりやすく説いたものなので、釈迦の生前においては、自分以外のもの(他力)に身を任せることによって救われるという考え、即ち、偶像を崇拝することは許されておりません。 仏像崇拝は、仏教が中国、そして日本に伝わっていく中で盛んに行われるようになっていきました。中国に伝わった仏教は、天台智顗によってその思想がより深く解明され、「空・仮・中」といった仏教の主題となる〝三諦説〟(三界唯心思想)が次第に完成系へと導かれます。

 蔵教(阿含経)で〝仮〟の真理(縁起)が説かれ、通教(般若心経)で〝空〟の真理(色即是空)が説かれ、別教(華厳経・維摩経・解深密経等)で〝中〟の真理(悟りの理論である唯識)が説かれます。そして円教の法華経で「空・仮・中の三諦」が円融する〝一念三千の法門〟が天台智顗によって顕されます。

 蔵教の時代は、「空・仮・中の三諦」は、実体に即した仮諦が説かれただけで〝仏〟については未だ詳しく明かされていませんでした。ですからこの時代の声聞という境涯の修行者達は、自分たちが仏に成れるとは思ってもいません。修行も実体(仮)に即した戒律が中心でした。

 仏滅後の通教では竜樹が『中論』で「実体から抜け出る理論」を顕し、インドでは瞑想、中国では禅定といった修行が中心となっていきます。 その後、竜樹の後に出現した世親が竜樹の〝空〟と十地経の〝三界唯心〟を基に唯識を解き明かして中諦の「悟りの理論」が明らかになります。

 そして別教に入って〝仏の三身(応身・報身・法身)〟が説かれて、応身仏や報身仏、法身仏といった様々な仏像が造られるようになって仏像崇拝が盛んに行われるようになっていきます。 仏像崇拝は、実在や実体という〝認識〟から生じる「未だ実体思想から抜け出せていない声聞」という境涯の仏道修行者の本尊観です。仏法の修行と法理の理解が深まっていくと縁覚の境涯に入って〝意識〟は〝唯識〟へと移り、実体思想(声聞)から抜け出て〝空思想(縁覚)〟へと境涯は深まっていきます。

 実体(実在)から抜け出た縁覚の境涯においては、本尊の在り方も変わってきます。真言密教の観法の本尊として用いられる両界曼荼羅(胎蔵曼荼羅.・金剛界曼荼羅)のように〝仏像〟ではなく、実像から離れた〝曼荼羅〟へと本尊形式も変わっていき仏から法理へ(空諦から中諦へ)と崇拝の対象は変わっていきます。 大聖人様が顕した十界曼荼羅もそういった法理を顕した曼荼羅御本尊です。〝一念三千〟という真理を顕した本尊なのですが、実体思想から抜けることが出来ずにいる人達(声聞の境涯)は、その曼荼羅さえも実体でとらえてしまい、〝曼荼羅=仏〟と考えて〝人法一箇〟という誤った教学を創作します。

『十法界事』の中で「永遠不滅の仏界」は、九界から離れた「厭離断九の仏」であり〝常見〟なので〝附仏法の外道〟にあたると大聖人様は御指南あそばされております。 九界から離れた仏像崇拝がこれにあたります。例え十界互具を説く仏様であってもそれが〝永遠不滅〟を意味していれば、〝常見〟であり外道に他なりません。 日蓮正宗の永遠不滅の御本仏とする「戒壇の御本尊」がまさにそれにあたります。

〝人法一箇説〟は、曼荼羅本尊に人本尊と法本尊の二つの意義が備わっているとするものですが、〝人〟と〝法〟とが同じレベルの本仏として一つの本尊に収まることはまずあり得ません。 何故かと言うと、お釈迦様は〝法勝人劣(法は勝れ人は劣る)〟を説かれていますので仏法においてまず〝人本尊〟はありえません。 概念の中で生きている人間と、概念から完全に抜け出た次元の真理とでは次元(国土)が全く異なります。その真理という空間に人の概念は存在しません。 法華経『見宝塔品』第11の中で釈迦は虚空会の儀式を始めるにあたって〝三変土田〟で人界の衆生を国土から完全に退けています。その虚空会を顕した曼荼羅本尊において「人としての本尊の意義」がどのように説かれているというのでしょうか。

 悟りを開いたお釈迦様ですら始成正覚の迹仏でしかないのに人が本仏に値するなどもってのほかです。本仏の意味を全くはき違えています。ですから正宗では久遠元初などという造語を用いて日蓮本仏論を無理やり正当化しています。(かといって釈迦本仏でもありません)

 御本尊は寿量品の虚空絵の様子が描かれています。そして法(南無妙法蓮華経)を中心とした一念三千の〝相〟として首題の南無妙法蓮華経を中心に始成ではない久遠の十界が文字で顕されています。文字という概念で顕されていますが、顕しているのは真理(法)です。真理の悟りの一念三千です。 一念三千の正しい解釈に至っていない大乗の仏教宗派は、ことごとく「永遠の仏」を説きます。それが

 「如来常住 無有変易 常楽我浄 終不畢竟 入於涅槃 一切衆生 悉有仏性」

 の誤訳によるところです。 「如来常住にして変易有ること無く、常、楽、我、浄なり。終に畢竟じて涅槃に入らず。一切衆生 悉く仏性有り」 という涅槃の四徳を顕した『大般涅槃経』の「迦葉品」の経文です。

 大聖人様は、この大乗の四徳の〝常楽我浄〟を『御義口伝』の中で次のように解釈なされております。

「上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。有る時には一人に此の四義を具す。二死の表に出づるを上行と名づけ、断常の際を踰(こ)ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆる故に浄行と名づけ、道樹にして円(まど)らかなり故に安立行と曰うなり。」

『法華経』寿量品の「常住此説法」の御文の「常」、「我此土安穏」の「楽」、「自我得仏来」の「我」、また『法華経』薬王品の「如清涼地」を「浄」とされています。

  常住此説法=「仏は常に娑婆世界に住んで法を説いている」(常)
  我此土安穏=「我此土は安穏にして、天人常に充満せり」(楽)
  自我得仏来=「私が悟りを得てからこのかた」(我)
  如清涼地 =「涅槃の境涯は清涼の池のように清らか」(浄)

 曼荼羅御本尊の釈迦・多宝の二仏の両脇に四菩薩が配列されておりますが、

  常=仏は常に法を説く。(無辺行)
  楽=涅槃の国土は安穏である。(安立行)
  我=本地(涅槃)の自我を悟る。(上行)
  浄=涅槃の境涯は清涼の池のように清らか。(浄行)

 を意味しており「法華経寿量品」の〝虚空絵〟の涅槃の境地が示されています。 この四徳の中の〝楽〟は精神の安泰、〝浄〟は国土の清きを示しているのは解りやすいのですが、〝常〟と〝我〟の解釈が語釈されやすいところなので詳しく解説してまいります。

『大般涅槃経』の「迦葉品」の、 「如来常住 無有変易 常楽我浄 終不畢竟 入於涅槃 一切衆生 悉有仏性」 の「如来常住 無有変易」の部分が〝常〟にあたる訳ですが、大乗解釈では、「如来常住にして変易有ること無し」と解釈します。涅槃においては如来は常住であると。ですから「永遠不滅の仏」を崇拝する思想がひろまった訳です。

 しかし永遠の生命を説くのは外道義です(厭離断九の仏)。 この「如来常住 無有変易」の正しい解釈は「如来は常住で無有に変易す」です。 大聖人様が『法華経』寿量品の「常住此説法」を指して〝常〟とされているのも、寿量品自我偈の次の文意によるところです。

「私は常にこの世界にあって不滅ですが人々を導く手段として死んでみせたのです。他の国土の人々も私を信じ敬うならばその人々のためにも私は最高の教えを説くでしょう。あなたたちはこれを信じずに私が死んだと思っています。私がみるところ人々は苦しみの中にあえいでいます。だから姿を現わさず、すがる心(信仰心)を起こさせたのですが今私を仰ぐ心が起こったのでこうして姿を現し教えを説くのです。」


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