5-1 外道

 常楽我浄(じょうらくがじょう)という言葉を御存じでしょうか。お釈迦様が説かれた教えと真逆な教え四顛倒(してんどう)を意味する仏教用語です。 大聖人様は『一代聖教大意』の中で次のように示されています。

  外道は心を〝常〟と言い仏は無常と説き給う
  外道は三界を〝楽〟と言い仏は苦と説き給う
  外道は一切衆生に〝我〟有りと云い仏は無我と説き給う
  外道は身を〝浄〟と言い仏は不浄と説き給う

  •  一番目をご覧ください。お釈迦様は〝無我〟を説きましたが外道は〝常見〟を説きます。常見とは永遠不滅の存在のことで、バラモンで説かれる古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる梵我一如(ぼんがいちにょ)がそれにあたります。
  •  梵(ブラフマン)とは宇宙を支配する永遠不滅なる原理のことで、我(アートマン)とは個人を支配する永遠不滅の原理で、この両者が同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想です。
  •  創価学会なかんずく池田会長が提唱した「南無妙法蓮華経は生命と宇宙を貫く根本の法則」は、お釈迦様が徹底的に破折されたバラモンの梵我一如の外道義そのものです。
  •  教学で〝無我〟を教わっていない学会員さん達は、これに気づかずにまさか自分達が外道義信仰(宇宙の法則)をさせられていたとは思ってもいない事だと思います。 お釈迦様は、「常見・断見」を外道として内道の仏法をこの二辺から離れた「中道」として縁起を説かれました。
  •  創価学会や日蓮正宗では、今世限りの生命〝断見〟を説くキリスト教などを〝外道〟と思い込んでいますが、〝常見〟も外道にあたります。『一代聖教大意』の中で大聖人様は、

「外道に三人あり、一には仏法外の外道 九十五種の外道、 二には学仏法成の外道 小乗、 三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり」

 と、外道に三種あることを記されています。一の仏法外の外道は創価学会や日蓮正宗でいうところの内道を説かない外道で分かり易いのですが、二の「学仏法成の外道」と三の「附仏法の外道」が解り難いので少し説明しておきます。

 二の〝学仏法〟とは仏法を学んでも尚外道(実体思想)から抜けきらない小乗教の析空に陥った仏法修行者のことです。 お釈迦様は、〝我有り〟を説く外道に対し縁起をもって〝無我〟を説きます。常に流動的に変化し続ける世の中において、変わらずにあり続ける永遠不滅の存在はあり得ないとして「モノの有る無し」や「生命の断見・常見」を外道義として破折されました。

 しかし、この小乗で説かれた縁起は仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらずにいた〝声聞〟という境涯の弟子達に対して、実体に即して説かれた此縁性縁起であった為、「肉体(因)があるから煩悩(果)が生じる」といった「モノの有る無し」の思考(実体思想)から身も心もともに滅する色心俱滅の過酷な修行を小乗仏教の中で展開します。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。
 「モノの有る無し」でモノを見る科学の話しにそって仏法を語る人がこれにあたります。

  池田会長の三諦論
  http://mh357.web.fc2.com/ikeda.html

 三つ目の「附仏法の外道」とは、仏法者であるようなふりをして、実は仏法からはずれた教えを説いている人のことをいいます。 大聖人様は先ほどの小乗の〝学仏法の外道〟に対して附仏法を〝大乗の外道〟とされていますが、その意味は大乗で説かれる厭離断九の仏(おんりだんくのほとけ)に由来します。 『十法界事』にそのことが詳しく述べられていますので紹介します。

「大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや」

 これは大乗の別教の中で説かれている〝厭離断九の仏〟について述べられている箇所ですが、変易生死(歴劫修行の事、詳しくは註釈:1を参照下さい)で大乗において菩薩となった修行者が、仏界の一理に進む為に三惑を断尽して変易の生から離れてた寂光に転生することで仏となります。しかしこの場合、九界を滅する訳ですから〝断見〟であり九界から離れた仏界へ転生する訳ですからそこにおける永遠不滅の仏界は〝常見〟となると仰せになられています。

 戒壇の御本尊と称して永遠不滅の仏を説く日蓮正宗の誤った教学がこれにあたります。 お釈迦様は永遠不滅の存在を否定されて縁起を説かれました。縁起とは全てのモノは縁によって生じた姿であり、永遠に変わらずにあり続ける存在は無く、よってそのモノ自体は無我であり無自性であるとする教えです。 戒壇の御本尊様に大聖人様の生命が永遠不滅にやどっていると見る日蓮正宗の見かたは〝常見〟になります。三つ目の「附仏法の大乗の外道」がこれにあたります。

註釈:1 損変易生

 「損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損じ仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず」『三世諸仏総勘文教相廃立』

【解説】 生死には「分段生死」と「変易生死」の二種があります。「分段生死」は凡夫の転生(六道輪廻)で、「変易生死」は五蘊を空じた聖者(声聞・縁覚・菩薩)の転生をいいます。声聞・縁覚・菩薩の各々が菩薩の道を修行して仏に成らんとする因を積んでいく中で、数えきれない程の劫数を経て同居土(穢土)から方便土へ、方便土から実報土へ下位を捨てて上位に転生し遥か遠くの仏(厭離断九の仏)が住む浄土を目指すことを「変易の生死」といいます。しかし、穢土において凡夫が法華経を修行すれば十界は互具し、三身は一身に現れて「変易の生死」を一生の内に修めて即身成仏を遂げることができます。


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