御本尊
〝御本尊〟の原理を説明された御書に『草木成仏口決』という御書があります。大聖人様が51歳の御時、佐渡の塚原において、最蓮房に与えられた御書です。最蓮房は大聖人様と同じように佐渡に流罪となっていた学識のある天台宗の僧侶でしたが大聖人様に折伏されてお弟子となられました。その『草木成仏口決』は、次のような内容で始まります。
「止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す無情仏性惑耳驚心す」此の一色とは五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり・一とは法性なり、爰を以て妙楽は色香中道と釈せり、天台大師も無非中道といへり、一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言は・かはれども草木成仏の事なり」
この文章を解りやすく説明します。
天台大師の摩訶止観の第一に「一色一香といえども中道実相の理でないものはない」とあります。これは、〝地球上の如何なるものであっても、仏法の真理でないものはない〟という意味ですが、妙楽大師(天台宗の第6祖)がこの文を受けて、
「世の中全てにその理(一念三千)が通ずるといっても、無情のもの(例えば石ころなど)がどうして仏性を観じとることが出来ようかと世間の人たちは耳を疑うであろう」
と言っています。ここで言う〝一色〟とは、青、黄、赤、白、黒の五色の中のどれか一色といった意味ではなく、「一とは法性なり」とありますように一念三千の今一瞬の目の前の実在の光景(認識世界)が三千の要因が縁となって立ち上がった世界観であるという真理。これを妙楽大師は「色香中道」と訳されています。一色一香の一は、二や三に相対した一ではなく、「中道法性」即ち一念三千を指しての一というのです。そして、
「所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし」
と、十界・三千の依正等を備えないものはないと言われています。依正とは、「依報と正報」のことで、過去の宿業の報いとして受ける環境とそれをよりどころとする身体のことです。「一色一香」の〝一香〟は、一つの香り。感覚・意識の対象を代表させていった言葉で目の前に映る今一瞬の光景(一色)や意識として感じる感覚(一香)を〝色香〟と表現し、
「此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり」
と、非情の対象である草木も成仏、即ち仏に成りえると言い、それは蓮華の成仏であると大聖人様は御指南あそばされています。そして次の文に繋がります。
「口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云、法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」
草や木は非情であり、人や動物などの生き物は有情です。草木が成仏することの意味は、寿量品の釈迦にあると言われ、その極意は「如来秘密神通之力」であると言われています。
〝寿量品の釈迦〟とは「始成正覚」に対する「久遠実成」の釈迦の意で、時空を超えた世界観(虚空会)においては、草や木も人や動物も全てが一体として顕れます。それがどういうことなのか、「石」を例に説明します。
「石」は人が石として(五蘊で)認識して初めて〝石〟として立ち上がる色相で、生まれつき盲目の人にはその姿は立ち上がりません。単独で「石」という〝モノ〟が存在する訳ではありません。
また、日本人が見る石は、〝石〟ですがアメリカ人が見ると同じ石であっても〝Stone〟に変わります。縁が変われば同じ石でもその認識のされ方が変わってきます。漬物屋さんが見れば漬物を作る為の〝道具〟であり、墓石屋さんが見れば墓石を作る〝素材〟として認識される訳です。では、認識する人がいない場合、石はどうなるでしょう。
例えば宇宙空間に漂う石は、誰からも認識されません。その場合の石は「石」でも「Stone」でもなく石そのものの存在自体が生じません。存在しているにも関わらず、誰の心にもその石の存在が認識されない為、存在自体が認められないのです。誰かが肉眼で認識して初めて「石」とも「Stone」ともなります。その石が「石」や「Stone」であることを定義づけるのが〝概念〟です。「始成正覚の釈迦」は、この概念で説き顕された〝仏〟です。それに対し、時空を超えた虚空会の世界観で描かれる「久遠実成の釈迦」は、その概念から抜け出た〝仏〟です。この概念から抜け出た時空を超越した〝寿量品の釈迦〟が真如(真理)の世界です。(国土世間)
始成正覚の釈迦=概念としての仏
久遠実成の釈迦=真理としての仏
釈迦が禅定でたどり着いた法華経本門の虚空絵は、「人間の概念」を遥かに超越した次元です。なので如来が飛来して来たり宝塔が宙に浮いて存在したりで、現実とかけ離れた世界として描かれています。現在・過去・未来といった時間の概念から抜け出ていますので〝過去仏〟である多宝如来もその姿を顕わします。その「概念から抜け出た世界」がどのような世界なのか、少し考えてみましょう。
まず石は〝石〟ではなくなる訳ですが、大きな〝それ〟を手に取ると〝重い〟と感じます。しかし〝重い〟という言葉もまた概念です。その〝それ〟が足に落ちれば〝痛い〟と感じます。〝痛い〟という表現もまた概念です。言葉の概念の中で生きている人は思わず「痛い!」と叫ぶでしょう。では言葉の概念がない人は、なんと叫ぶでしょう?
「あー!」とか「うぅぅぅ!」といったところでしょうか。実は「南無妙法蓮華経」とは、そういった言葉の概念から抜け出た言葉なのです。あるのは、ただ一つの一念三千という真理。今一瞬の光景は三千の要素が複雑に絡み合って立ち上がった自身の心が造り出している〝世界観〟であるということ。それを「南無妙法蓮華経」と名付けられたのです。大聖人様が勝手に名付けた訳ではありません。天台智顗もそれは知っていました。知っていたが弘めなかった。その話はまた別の機会にお話しするとして、法華経寿量品の虚空会に出てくる「七つの宝物で飾られた塔」、それを七文字の〝南無妙法蓮華経〟として大聖人様が法華経に予言されている上行菩薩の立場で顕されました。
お釈迦様は仏法が東の国、日本に伝わっていくことを解っていて「七つの宝物で飾られた塔」と表現されたのでしょう。世界に類をみない程に日本語ほど繊細な表現力をもった言語はありません。仏法は伝わるべくして日本に広まっていったのです。石や草や木といったものは、人の心が〝概念〟として認識して顕れるもので、その概念を取っ払って心を〝南無妙法蓮華経〟だけにしたら、全てのものは南無妙法蓮華経として顕れるという事です。
「全てのものに仏性は存在する」とは良く言いますが、石や草や木に仏界がある訳ではありません。『草木成仏口決』で云う「一色一香」は、目の前に映る今一瞬の光景(一色)や意識として感じる感覚(一香)を〝色香〟と表現し、「中道法性をさして一」と云い、その十界・三千・依正等を備えた(非情の草木も含めた)一念三千が〝南無妙法蓮華経〟となって草木といえども成仏、即ち仏になります。
「中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言葉は変われども草木成仏の事なり」
全てのものは「無我」であり「無自性」です。縁によってその姿が顕れているに過ぎません。自身の心から生じた石(石と自身が而二不二で一体)なのでそこには仏性(南無妙法蓮華経=一念三千)が備わる訳です。
人は五感で外の情報を感じ取りそれを意識として統合します。これを認識といいます。その意識を中心に立ち上がる実体の世界を衆生世間と言います。〝凡夫の一念三千〟です。その世界における真理(縁起)が仮諦です。
その表層の五蘊(五感)を空じて肉体(実体)が存在しない第七マナ識、第八アラヤ識、という深層の意識層に意識が入っていくと非実体の五陰世間が立ち上がります。〝仏の空観の一念三千〟です。その世界における真理「色即是空 空即是色」が空諦です。
そしてさらに奥底の九識に究極の一念三千が真理(真如)として存在します。その真理が九識心王真如の都「南無妙法蓮華経」です。〝概念〟ではなく〝真理〟を中心に立ち上がる空間認識の変化から生じる一念三千(国土世間)です。
そこのところを理解して御書の『十如是事』を拝読してみましょう。
「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相(実体)を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性(非実体)を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体(当体蓮華の凡夫の体)なり是を法身如来とも又は中道とも法性(中諦)とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是(相・性・体)を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり、譬えば春夏・田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり」
一念三千の軸となる起点は〝十如是〟の最初の如是〝相〟と如是〝性〟です。石には石の〝相〟があります。それを石だと認識する心が〝性〟です。アメリカ人にとっては同じ石の相であっても性は「Stone」です。性はそれを認識する人の〝心〟です。心を「概念」で開くのか、心を法華経(南無妙法蓮華経)で開くのか、それによって〝体〟も異なってきます。概念で開けば凡夫の〝体〟、南無妙法蓮華経で開けば仏の〝体〟です。
十如是はこの「相・性・体」を軸として動き出します。凡夫の〝相〟と概念からなる〝性〟が〝体〟となって働く十如是が凡夫の一念三千(仮諦)です。肉体を持たない仏の場合、凡夫の認識に応じて応身として顕れた仏がその〝体〟となります。インドに生を受けたお釈迦様です。その応身(始成正覚)の〝相〟と法華経という概念(理の一念三千)からなる〝性〟が〝体〟となって顕されたのが法華経迹門の『方便品』の十如是の仏の一念三千(空諦)です。概念(理の一念三千)で顕された始成正覚の〝迹仏〟です。
では、〝寿量品の釈迦〟はと言いますと、その始成(有始)の十如是を打ち破った久遠仏(無始)の十如是になります。それがどういうことかと言いますと、仏という「概念」を軸として開く一念三千ではなく、概念を超えた〝真理(真如)〟として開かれる一念三千が真実の覚りの(事の)一念三千(中諦)であるという事です。『白米一俵御書』の〝月こそ心、花こそ心〟の一節がそれにあたります。
月こそ心、花こそ心
「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし 草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず 心即ち大地 大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし 心のきよきは花のごとし、法華経はしからず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり」
『白米一俵御書』のこの一節は、『本門 – 円融三諦』の章の中の「22.月こそ心、花こそ心」のところでも紹介しましが、そこでは分別・無分別の角度から解説させて頂きました。言葉による分別で実体という概念が形成され(仮諦)その実体思想から抜け出て仏の空観に入ることで無分別の境地に至ります。(空諦)
今回は同じ御書の一節ですが中諦の「概念から抜け出た世界(国土)観」で解説させて頂きます。
蔵教では、「心から万法を生ずる」といった説き方をします。ここでいう万法とは、因果と縁起のことで、最初に因があってそれが縁によって最終的に結果が生じるといった時間的流れに則った法理(声聞の悟り=仮諦)です。それはちょうど「大地から時間をかけて草木が茂っていく」ようなものです。
しかし法華経はそうではなく、「大地が即草木であり草木が即大地である」と説きます。これは因と果が異時ではなく同時に存在するという法華経でしか説かれていない当体蓮華の法理を端的な言葉で言い表しています。
また心を中心に説く通教では「心が澄むのは月のようである。心が清いのは花のようである」と説きます。これは譬えであり譬えを説くのは通教が得意とするところです。澄んだ清らかな心が示すもの、それは縁覚の悟り「色即是空 空即是色」」です(空諦)。
しかし、どちらの譬えも心と月、心と花といったように心と物が分別(言葉)によって対比され区別されています。それに対し「無分別の法」を説く法華経は、「月こそ心、花こそ心」と、月も花も自身の心そのもの(南無妙法蓮華経)であると説きます。
これを「不二の法門」とも「而二不二(ににふに)」の真理ともいいます。この真理を悟った境涯が菩薩です。空・仮・中の三観・三諦で言えば中道第一義諦の「中諦」にあたります。
仏は修行の因を積んでその報いとして仏としての徳を得ます。この因行果徳は、因を元として果が生じると言った時間の流れ、即ち「時間という概念」の中で起こるお話です。過去遠々劫の宿業が蓄積する八識のアラヤ識はそういった記憶から生じる時の流れという概念によって生じる一念三千の世界観の範疇です。
仮諦=声聞の境涯
空諦=縁覚の境涯
中諦=菩薩の境涯
その更に奥底に位置する時の流れといった概念から抜け出た世界(次元)、それが〝南無妙法蓮華経〟という真如(真理)として開く一念三千の世界(国土)観です。仏界の相(真如の虚空絵)である御本尊を〝相〟として(応身如来)、法華経の心を〝性〟として(報身如来)、南無妙法蓮華経(法身如来)を我が〝体(当体蓮華)〟として一念三千を開くと石も草も木も人も動物も全てが南無妙法蓮華経(一念三千)という真理として顕れます。その心が、
「月こそ心、花こそ心」
であり、
「草にも木にも成る仏なり」
です。ではその〝南無妙法蓮華経〟が『寿量品』のどこに沈められているのか。大聖人様は、〝寿量品の文の底に秘して沈めたり〟と仰せになられていますが、それが寿量品のどの文なのか。
「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」
と『御義口伝』にあります。『御講聞書』にも、
「本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり」
「法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり」
とあります通り、寿量品の中の「如来秘密神通之力」の文がそれにあたります。大聖人様は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』の中で、天台の「法華文句」の巻九の言葉をもって説明されています。
「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」
これは法華経本門に至って初めて明かされる法理であって、三身如来の一身即三身、三身即一身を他経では秘して説かずにいたと。
密教
お釈迦様が衆生の機根に応じて説いていかれた教えは、言葉による教説です。言葉という〝概念〟で示された「仏の道」です。しかし真理というものは〝言葉〟という概念から離れた高い次元にあります。この概念として言葉で顕された教えを〝顕教〟といいます。そして「言葉という概念」から離れて説かれた教えを〝密教〟といいます。
天台智顗が「法華文句」の巻九の中で、寿量品の〝如来秘密〟を「昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」と釈している部分です。
別教の中で「密教の本尊」として崇められている大日如来は「無相の法身」で姿・形の無い真理そのものになります。にもかかわらず説法(大日説法)を行うという矛盾を含んでいます。また大日の実態は不明で、般若心経を説く観音と同様に釈迦の垂迹の姿と見るのが正しい捉え方で、大聖人様も『真言天台勝劣事』の中で「大日経は釈迦の大日となつて説き給へる経なり」と云われております。
その密教では『金剛頂経』にもとずく金剛界と、『大日経』からなる胎蔵界がそれぞれ曼荼羅として顕されていますが、この二つの経典は密教の二大経典にあたります。金剛界は唯一絶対の実在界の真理が説かれ、胎蔵界は大日如来の慈悲が説かれています。
また密教には、「東密の真言密教」と「台密の天台密教」とがありますが、共に「従因至果・従果向因」を説きます。〝従因至果〟とは、原因があってそれが時間経緯で結果が生じるという意味で「因によって果に至る」と読みます。対して〝従果向因〟の方は、どうしてこのような結果が顕れているのか、その原因を解明する方向に向っていくという意味で「果に従って因に向かう」と読みます。
【従因至果】
因によって果に至る。
【従果向因】
果に従って因に向かう。
密教の中心となる大日法身(大日如来)の真理や悟りの境地を顕した金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅は、この従因至果と従果向因を〝曼荼羅〟として顕したものです。それまでの仏教では仏という〝概念〟が中心でしたが密教では概念から向け出た〝真理〟を説きます。
因によって果が生じる〝従因至果〟は、実体がともなう因果律で時間の経過によってその実体に変化が顕れる因果で、物理や科学の科学実験や観察実験、また医学における臨床実験などがこれにあたります。お釈迦様は『阿含経』の中で、仏門に入りながらも未だ実体思想から抜け切れていない声聞の境涯の弟子達に、まず解りやすい実体に即した〝従因至果〟の因果を示して縁起を説きます。この従因至果の縁起は、「実体における真理」で仏法では〝実体〟は実在ではなく〝仮在〟と見ますのでその仮在における真理ということで〝仮諦〟と呼びます。〝諦〟は真諦の意味で真理をあらわします。
この〝従因至果〟の縁起のことを〝此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)〟とも言います。科学実験や臨床実験にみられるように「実体の有り様」を因果でとらえたこの縁起は、「因が縁によって果が生じる」といった時間の経緯によって生じる〝順観〟の縁起です。
この「実体における真理」に対し龍樹は、「実体から抜け出た真理」が『般若心経』で説かれていることに気づきます。それが〝空観〟という五蘊を空じることで起こる縁起です。この空観における縁起を〝逆観〟の縁起といいまして、お釈迦様が説かれた「順観の縁起」は、此縁性縁起ですが、龍樹が般若心経を解明して顕した「逆観の縁起」は、相依性縁起(そういしょうえんぎ)と言います。
この相依性縁起は、自身の五蘊を空じることで起こる縁起ですが、具体的に何が起こるかと言いますと、今まで真理だと信じて疑わなかった事実がくつがえって全く別の認識が立ち上るということです。龍樹が顕した『中論』の中の第2章、「運動(去ること)の考察」の中でそのことが示されています。
すでに去ったものは、去ることがない。 まだ去らないものも、去ることがない。 さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、現に去りつつあるものも、また去ることがない
この偈(詩)は、一見するとあたりまえの事を言っているようで、実は大変深いところを表現されています。その真意をつかみやすいように現代風に解りやすく表現すると次のようになります。
向かってきている時の救急車のサイレンの音と、救急車が遠ざかっていく時のサイレンの音とでは、「同じ音」にもかかわらず音程の違いが生じます。〝音〟というものは、そのものに「変わらずに有り続ける本質」は無く、人がそれを認識してはじめて生じる〝音〟であって、その人の状況が変わればその音もまた別の音として認識されるという解りやすい事例です。 龍樹はそれを〝音〟ではなく〝運動〟を取り上げて「去るという行為」を例えに用いて説明しています。
去るということは「今ここには既に居ない」という事実が無いと立証されません。しかし既に去っている訳でしてその「ここに居た姿」はもう存在していないので「すでに去ったものは、去ることがない」といった表現になっています。
また、その人がまだ去らずにその場に居たとしたら「まだ去らないものも、去ることがない」となって観測者がどの時点の「去る人」を見ても去るという行為がどこにも存在しないことをパラドックス的(逆説的)に表現しています。
この偈が意味するところは、我々があたりまえのように信じ込んでいる〝法理(実体における真理)〟が、実は自身の概念が造り出すもので、実体を空じたところ(世界観)に実は真実の姿が顕れるという空の真理、即ち空諦を説いています。
実体に即した順観の縁起で生じる世界観が「色即是空」で、実体を空じた逆観の縁起で立ち上がる世界観(空観)が「空即是色」です。
要するに龍樹は、お釈迦様が空じる対象を〝我(われ)〟として「無我」を説いたの対し、その空じた〝我〟を縁として起こり得る事象の法理を逆観で説いて「無自性」とした訳です。 解りやすく言うと、我々は引力は「自然界に元から備わっている法則」だと思って疑いませんが、その引力の法則は過去と現在の物体の位置の変化から起こる縁起です。(順観の縁起)
しかし、目の前の自身の息子に向かって「あなたは誰ですか?」と尋ねる〝認知症〟のおばあちゃんが引力で落ちたリンゴを見ても「落ちたリンゴ」ではなく「地面においてあるリンゴ」でしかなく、去る行為が存在し得ないと龍樹が言っているように「引力の法則」も実は存在せず(逆観の縁起)人間の脳が持つ〝記憶〟という能力から起こる人間の概念の中で起こる出来事(縁起)であって、そのような高度な脳を持たない生物においては引力は生じないということに成ります。
お釈迦様が〝人(我)〟を中心にした「無我」を説き、龍樹が〝法〟を中心とした「無自性」を説くことで、 実体における真理=順観の縁起(仮諦)と、 実体を空じた真理=逆観の縁起(空諦) の仮諦・空諦の二諦が解き明かされます。『阿含経』で説かれるを空(人空)を析空といい、『般若心経』で説かれている空(法空)を体空と言います。
人空=析空(阿含経)
法空=体空(般若心経)
析空は小乗仏教の空の理解で、「机は脚を外せば棒と板になって机の姿が無くなる」といった細分化することでその姿が見えなくなるといった科学や物理学的な「実体に即した空」の理解です。対して龍樹が起こした大乗の体空は、空観を体感することで起こる縁起になります。
仏門に入って最初に得られる境涯の〝声聞〟では縁起を実体思想でしか理解出来ません。それが「此れ有るとき、彼れ有り」といった因が縁によって果を生じるといった此縁性縁起です。この此縁性縁起は、時間の経緯によって起こる変化を捉えた縁起で、〝時間〟と言う概念の中での縁起の理解です。(仮諦)
この時間という〝法〟が絶対的な存在ではなく、概念に過ぎないと理解することで更に深い真理を悟って修行者は〝縁覚〟という境涯へと進みます。
「時間も概念に過ぎない」と法空を悟った龍樹は、縁起を更に深く解明し相依性縁起を『中論』の中で詳しく解き明かします。 その違いを例えを用いて解りやすく説明します。
「電車の中の風景」を想像してみて下さい。仕事でクタクタに疲れ果て座って楽に過ごしたい所なのですが、運悪く座れずに立って過ごさなければなりません。苦しいです。この苦しみを打ち消すのに此縁性縁起では、苦しいという思いを打ち消す為に座りたいという願望を打ち消して〝無我〟の境地を築きます。小乗仏教が目指す〝寂滅〟です。煩悩が有るから苦しみが生じるといった「此れ有るとき、彼れ有り」の此縁性縁起です。
それに対して相依性縁起は、時間という概念から離れていますので同じ状況にあっても心の動き(十如是)が異なります。先程〝音〟を例にして説明しましたが〝時間〟にしても絶対的な存在ではありません。「好きな事をしている時」の1時間はあっという間に過ぎますが「苦痛に感じている時」の1時間はとても長く感じます。同じ1時間なのにその長さは違って感じます。
物事は全てが(法も含めて)相対関係で成り立っているという相依性縁起を理解出来ている境涯(縁覚)ですと、同じ電車の状況にあっても、相対関係の縁起が起こります。それがどういった縁起かと言えば、「自分は立って苦しい状況にあるけれども、自分が立っていることで座っている人達が楽に過ごせている」と思えて他者貢献の心で満たされ苦しみの感情は消え去ります。
また、逆に自分が座っていたとしたら、「立っている人達のおかげで自分は楽に過ごせているんだ」という感謝の心で満たされます。これが大乗仏教で説かれる〝煩悩即菩提〟です。小乗仏教のように煩悩を寂滅させるのでなく、煩悩を菩提へと転換する教え、それが空諦の相依性縁起です。 此縁性縁起を流転門(順観)といい、相依性縁起を還滅門(逆観)とも言います。
大聖人様はこの二種の縁起について『御義口伝巻下』の中の「第三鬼子母神の事」で次のように述べられています。
「御義口伝に云く鬼とは父なり子とは十羅刹女なり母とは伽利帝母なり、逆次に次第する時は神とは九識なり母とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり、流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり、仍つて十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり、三宝荒神とは十羅刹女の事なり所謂飢渇神・貪欲神・障碍神なり、今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり荒神とは法華不信の人なり法華経の行者の前にては守護神なり云云」
ここで言う、「流転門の時は悪鬼なり」の〝流転門〟が流転の縁起のことです。実体に即した(仮)流転の縁起で顕れる姿(仮在)は悪鬼であるが、「還滅門の時は善鬼なり」と、(五蘊皆空で)空観に入って還滅の縁起(心の変化)で顕れる姿は善鬼である。そして「十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり」悟りの中諦の真如として顕れる姿は、鬼子母神十羅刹女であるとの御指南です。
- 仮の真理(縁起)=流転の縁起
- 空の真理(縁起)=還滅の縁起
- 中の真理(縁起)=因果具時の縁起
そして空・仮・中のそれぞれが一念三千しますので、
- 仮の縁起=仮諦の一念三千
- 空の縁起=空諦の一念三千
- 中の縁起=中諦の一念三千
となります。この空・仮・中の三諦が南無妙法蓮華経で円融して三身如来が凡夫の一身に顕れて涅槃の悟りの境地に入ります。これを即身成仏といいます。
「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり 十界を形と為すは応身なり 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり 身土不二なり 一仏の身体なるを以て寂光土と云う」
『三世諸仏総勘文教相廃立』
法華経 第三章『文底 – 中編』(概念と真理)完 (後編に続く)
2022年7月30日 法介