7-3 法華経『文底 – 前編』(当体蓮華)

通教

 

 

三五の法門

 

『兄弟抄』の中に、

 

 

「経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり」

 

 

という御文があります。法華経の経文には二十の大事な法門があり、中でも第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門であると日蓮大聖人は、御指南あそばされています。

 

また、『法華取要抄』にもこの二つの法門について述べられています。

 

 

「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り其の中最要二有り所謂三五の二法なり」

 

 

今、法華経と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。

 

日蓮正宗では、「久遠元初」という言葉を用いて日蓮本仏論を立てていますが、日蓮大聖人は御書の中で久遠元初という用語は一度たりとも使われておりません。

上に示した二つの御抄に於いて、最も重要なのは“三千塵点劫”と“五百塵点劫”の二つの法門であると仰せになられています。

 

“三千塵点劫”で説かれている法門とは、略開三顕一による迹門『方便品第二』の十如実相によって顕わされた理の一念三千の法門です。

 

しかし、略開三顕一で示される十如実相は大変不可思議であり、舎利弗以下の声聞衆にとっては明確に領解することはできません。そこで舎利弗は、さらに広く分別して説法されるよう願い、以下、法説周・譬説周・因縁説周といった形に広げて『授学無学人記品第九』に至るまで三周の説法として展開されていきます。(広開三顕一

 

この三周の説法を受けて一念三千の理を信解したと承認された声聞の弟子達はお釈迦様より成仏の記別を授かります。

 

しかしここで声聞達が悟った法理は「理の一念三千の法門」であり迹門の分域です。

 

日蓮大聖人は『開目抄』に、

 

 

「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」

 

 

と仰せのように、本門で五百塵点劫が明かされて初めて一切衆生成仏の原理である真実の「事の一念三千の法門」が明かされます。

 

法華経本門で登場する五百塵点劫の久遠の弟子達(地涌の菩薩)の姿を日蓮大聖人は『開目抄』の中で、次のように表現されています。

 

 

「其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・大日経等の金剛薩タ等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば獼猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず、」

 

 

[現代語訳]

釈尊にとっては、第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。

 

 

大地が裂け、その中から涌き出てきた上行菩薩はじめ無量千万億の地涌の菩薩は、「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」と『法華経従地涌出品第十五』に説かれています。体が皆金色で、三十二相を具え、無量の光明を放っていたそうです。これは仏と等しい悟りを得た菩薩の最高位である「等覚」の菩薩を意味しています。

 

法華経本門において五百塵点劫より呼び出だされた「等覚」の菩薩は、菩薩でありながら仏である、「九界即仏界」の十界互具の姿でした。

 

 

「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」

                 

 

の『開目抄』の御文が示すところです。

 

その菩薩でありながら「仏」の「九界即仏界」の上行菩薩に対し、釈迦は、

 

 

「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」

(我もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず)

 

 

と、仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の姿が示されています。仏界と九界とが、かけ離れている爾前迹門の「厭離断九の仏」ではなく、九界の中に仏界を具そくする十界互具の「菩薩」と、仏界の中に九界を具そくする十界互具の「仏」であるから、寿量品の仏「久遠実成の釈尊」も、久遠から呼び出された上行菩薩も、どちらも「本仏」と成り、本来ならば仏から仏へ成されるはずの結要付嘱の儀式が、仏から上行菩薩への付嘱として説かれています。

 

この結要付嘱の儀式に示される「九界即仏界」「仏界即九界」こそが 本門に至って始成正覚を破ることで爾前迹門の十界の因果を打ちやぶり本門の十界の因果をとき顕す真の十界互具・百界千如・一念三千なるべしの「本因本果の法門」になります。

 

次に、「五百塵点劫の久遠の弟子」と「三千塵点劫の声聞の弟子」の相違について更に深く掘り下げてお話ししたいと思います。

 

 

 

 

 

比喩蓮華と当体蓮華

 

「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」

            

『開目抄上』

 

「爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす、是れ則ち本因本果の法門なり」

            

『寿量品得意抄』

 

 

この『開目抄』と『寿量品得意抄』の中で示されている「本因本果の法門」は、三千塵点劫・五百塵点劫ととても深い関係にあるのでお話をさせて頂きます。

 

 

法華経本門で登場する「九界即仏界」の等覚の菩薩と、「仏界即九界」の久遠実成の釈尊は、菩薩と仏が同時に一体(同体)として存在している「真の十界互具」の真仏の姿です。

 

 

真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし

『開目抄』

 

 

菩薩と仏は本来、因位と果位の関係にあたります。

 

「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますように、菩薩道を行じてそれが因となって仏の果を得るといった因果関係に基づく成仏観なのですが、この成仏観では「因を元として果に成る」わけでして、仏に成る瞬間が生じます。いわゆる始成正覚です

 

迹門に示される今世で始めて悟りを開いたとされる「始成正覚の釈迦」は、因果関係に基づいた成仏観を顕しています。

 

しかし始成正覚の釈迦は、「本無今有(久遠の本地を顕わさないで、今日の垂迹のみを示す)」と破折されました。“根無し草”のようなものだと。(三千塵点劫)

 

それに対し五百塵点劫の本有常住の本仏は、無始としての本因(真の十界互具)が示され、その因果関係が「因を元として果に成る」因果関係ではなく、因と果が同時に同体として存在しうる「因果倶時」の関係にあると説かれているのです。いわゆる「本因本果の法門」です。

 

 

爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す」

 

 

爾前迹門の十界の因果」と「本門の十界の因果」の違い、そこに本因本果の法門の意味するところが秘められています。

 

まず、「迹門と本門の十界の因果の相違」について説明します。

 

爾前迹門における十界の因果は三千塵点劫の声聞の弟子とお釈迦様の師弟関係における因果関係を意味しております。その関係が「因を元として果に成る」関係で、時間の流れにそった因果関係です。(因果異時

 

それに対し本門の十界の因果は、菩薩でありながら仏と等しい「九界即仏界」の等覚の菩薩と、仏でありながら菩薩の道を行じ続ける「仏界即九界」の真の十界互具の関係になります。

この五百塵点劫の十界互具は、時間の流れを伴わない同体として一時に因と果が共に存在するという「因果倶時」の因果関係になります。

 

 

本門・迹門における十界の因果の相違

迹門の十界の因果因果異時

本門の十界の因果因果倶時

 

 

「因果異時」と「因果倶時」の関係は、『当体義抄』の中で説かれる「比喩蓮華と当体蓮華」の関係にあたります。

 

 

 

 

 

当体義抄

 

三周の説法に約してここのところを論ずると、『方便品第二』で諸法実相をもって法体とする法説周を当体蓮華といい、上根の声聞は「蓮華」という呼び名は、喩えていったものではなく、蓮華は法の名であって法華経の法門のことであると悟ります。

 

かたや中根・下根の声聞に約する時、「蓮華」という譬えの名を借りた譬喩説であり、蓮華は因果が一時にそなわっているところが妙法に似ているという譬喩蓮華となります。

天台大師が法華玄義の第一の巻に 、「妙法は解しがたいが、譬えを仮りれば理解しやすい」と釈したのはこの意味です。

 

『当体義抄』では、そこのところを次のように述べられています。

 

 

「問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云、此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」

 

 

【現代語訳】

 問う、天台大師は法華玄義で妙法蓮華経を当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。

 答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを見るがよい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七下に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとり、その道理にふさわしい名をつけていったようなものである」とある。また、法華玄義巻七下に「今、蓮華という呼び名は、喩えていったものではない。それこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。

またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経のことである。だが法華経といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いて知ることができる。そこで理解しやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華を譬えたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法にあって、上根・中根・下根の機根にそれぞれにかなうような説法を行った。上根のものに約せば蓮華という法の名を、中根、下根の者に約せば蓮華という譬えの名を借りたのである。このように上中下の三根合論し、ならべて法説と譬喩説をあらわしたのである。このように理解すれば、誰がこの問題でどうして論争するであろうか」と。

 

 

 天台大師の法華玄義巻七下の意味は、妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人がその理を勧じて万物に名をつけるとき、因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである。  

 

この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具足して、一法も欠けるところがない。よってこの妙法蓮華を修行する者は、仏になる因行と果徳とを同時に得るのである。聖人は、この妙法蓮華の法を師として修行し覚られたから、妙因・妙果を倶時に感得し、妙覚果満の如来となられたのである。

 

「本門における十界の因果」が因果倶時に基づいた本覚本有の真実の十界互具であり、そのことが『十法界事』で次のように述べられています。

 

 

「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず」

 

 

【現代語訳】

迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏も今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。

 

 

と、ここで「無始無終の義」についてふれられていますが、この「無始無終」も重要な言葉ですのでその意味するところを説明します。

 

 

 

 

 

無始無終

 

無始無終」というのは、生じることも無く滅することも無いという仏の本有常住の姿を言いあらわした言葉で、始まりも終わりも無いといった意味です。

 

お釈迦様が菩提樹の下で今世で始めて悟りを開いたことを「始成正覚」と言いますが、これは凡夫であった釈迦が仏に成る瞬間が生じますので「始成正覚の仏」であって「無始無終の本仏」とは呼びません。

 

「無始無終」を絶対条件とした応身仏としての「無始無終の本仏」は、始成正覚のお釈迦様ではないのです。

 

そこのことろを日蓮大聖人は『呵責謗法滅罪抄』の中で、

 

 

「二千二百余年が間・教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす、然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏・真言大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし」

 

 

[現代語訳]

二千二百余年の間、教主釈尊の絵像、木像を賢王や聖主は本尊とした。しかしながら、但小乗・大乗・華厳経・涅槃経・観経・法華経迹門・普賢経等の仏、真言・大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝などは書いたけれども、いまだに寿量品の釈尊はどこの山寺や精舎にもおられない。

 

 

と、正法・像法時代に於ける「始成正覚の仏」としての本尊は示されて来ましたが、末法に於ける寿量品文底の「無始無終の本仏」は未だどこにも示されていないと述べられています。

 

では、寿量品の中で「無始無終の本仏」として説き明かされている応身仏としての応身如来は、どのような仏かと言いますと、応身如来の「如来」の意味は、真如のことであり真理です。ここで言う真理とは自然界に元から備わっている生じることも滅することも無い「無始無終」の存在を言います。

また、応身の意味は、「衆生に応じて出現する仏身」ということで、衆生の認識に乗る形で顕われる仏ということです。

 

日蓮大聖人は末法においてその無始無終の応身の仏の姿(相)を「曼荼羅ご本尊」として顕わされました。そして曼荼羅ご本尊を顕わすにあたって、寿量品の中の「如来秘密神通之力」の御文を依文となされている旨が『御義口伝』の中に示されています。

 

 

「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」

  ※ 依文とはより所となる経文のこと。

 

 

また、

 

 

「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり」

 

 

と、「即身成仏」とは即ち「如来秘密神通之力」なりとまで仰せです。

 

この寿量品の「如来秘密神通之力」とはどういうことなのか。大聖人様は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』 に、

 

 

一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」

 

 

と仰せです。爾前経では、

 

 

「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず

                      『開目抄上』

 

 

と云われるように、別教において大日法身の無始無終(有名無実の権仏)は説かれていますが、応身・報身の本地は秘して顕されず、法華経に至って初めて明かされるその応身の本地

 

 

応身の本地

  迹門・方便品三千塵点劫始成正覚の釈迦   (迹仏)

  本門・寿量品五百塵点劫無始無終の本仏の本地(本仏)

 

 

となります。これが三五の法門の意味するところで、この「三五の法門」によって明かされる「本因本果の法門」が、理解できてはじめて一身即三身、三身即一身の「三身の法門」の理解に至ります。

 

三身が別体として説かれている爾前権教(別教)では、応身・報身の本地やその実態も明かされておりません。仏(如来)だけが知る秘密なので「如来秘密」なのです。

 

『諸法実相抄』 に、

 

 

「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」

 

 

と、神通之力について、法身、報身、応身の「用の三身」であると示されています。「用の三身」は「体の三身」に対する用語で、『諸法実相抄』に、

 

 

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

 

 

と仰せの「倶体・倶用の三身」のことです。

 

 

 

 

 

倶体・倶用の三身

 

三身は法身如来、報身如来、応身如来の三身如来のことを言うのですが、如来と仏という言葉がどちらも仏を意味する言葉として誤って認識されていることが多いので、本来の正しい解釈を説明しておきます。

 

まず仏とは修行の因を積むことでその果報としての悟りを得た境地をいいます。ですから仏に成る瞬間が生じる「始成正覚」なのです。

 

それに対し如来とは、「悟りの境地より来た人」の意味で、最初から既に悟りの境地にある「無始無終の本仏」を指す言葉です。

 

虚空絵の儀式で宝塔の中に釈迦と多宝の二仏が鎮座して法華経が説かれる様は、仏と如来が同体として妙法にはおさまっているという当体蓮華が示された様です。

 

当体蓮華について理解を深める為に『十法界事』という御書の御指南を紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

『十法界事』

 

「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり」

421:13422:01

 

【現代語訳】

迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏もすべて今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。

このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。また無始の色心常住の義もない。「この法は法位に住する」と説いているのも、これは、未来へ向けての常住であって、これは過去からの常住ではない。本有の十界互具を顕さないから、本有の大乗の菩薩界もない。

 

ゆえに迹門の二乗は未だ見思惑を断じていず、迹門の菩薩は未だ無明惑を断じていず、六道の凡夫は本有の六界に住さないので、名のみ有って実がないということが分かるのである

 

 

『十法界事』のこの御指南は、迹門で説かれた十界互具が未来に向けての常住であって、過去からの常住ではない旨を指摘しています。

実際、声聞の弟子達は未来において成仏する記別をそれぞれ与えられて二乗の成仏が確約(二乗作仏)されました。

 

ここで言う「過去からの常住」とは、「無始無終の義」の事で、比喩蓮華ではない、当体蓮華としての十界互具を指しての言葉です。

 

ここで御指南あそばされている「無始無終の義」は、「真の十界互具」のことで応身・報身・法身の三身に当てはめて言えば報身としての「仏の智慧」としての一念三千の自受用身のことです。

 

大聖人様が伝教大師の言葉をかりて「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」と仰せになられた、姿・形をともなわない(出尊形の仏)衆生を成仏へと導く「仏の智慧」として顕れる報身仏です。

 

応身における無始無終の義は、『呵責謗法滅罪抄』を拝して説明しました通り、

 

 

<応身の本地>

  三千塵点劫始成正覚の迹仏(三十二相の仏)

  五百塵点劫無始無終の本仏(十界曼荼羅ご本尊)

 

 

となります。

そして報身における無始無終の義は、と申しますと

 

 

<報身の本地>

三千塵点劫理の一念三千(迹門方便品)(比喩蓮華)

五百塵点劫事の一念三千(本門寿量品)(当体蓮華)

 

 

となります。この当体蓮華が当体蓮華たるべき証が『如来寿量品第十六』の中で示される、

 

 

「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」

(我もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず)

 

 

と、仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の仏の姿と、菩薩でありながら「仏(等覚の菩薩)」の「九界即仏界」の上行菩薩の姿です

 

報身とは修行の報いとして受け用いる仏身という意味で、応身とは違って衆生が認識出来ない視覚的に認識することのない「法理」を指して言います。「一念三千の法門」がこれにあたります。

 

応身や報身といった三身にまつわる部分が詳しく説かれているのが通教の次に説かれた別教の教えです。別教では法身として大日法身が説かれ、他受用身として阿弥陀仏が説かれ、三十二相の釈迦仏が応身として説かれています。しかし別教で説かれている三身は、蔵・通・別・円の四教を通して示された比喩蓮華の三身如来です。全て迹仏で本仏ではありません。これを「用の三身」と言います。

 

衆生を悟りの境地へと導く為に迹仏として用いられた三身ということです。この「用の三身」に対して「体の三身」という三身が本仏としての三身如来になります。

 

 

<法身の本地>

用の三身(迹仏)別教で説かれた三身(始成正覚の仏)

体の三身(本仏)円教で説かれた三身(無始無終の如来)

 

 

この「体の三身」と「用の三身」が同体として存在する姿が俱体・俱用の当体蓮華の本仏と成ります。その法理を日蓮大聖人が「南無妙法蓮華経」と名づけられたのです。

ここまで三千塵点劫と五百塵点劫にまつわるお話をして参りましたが、要約すると「三千塵点劫と五百塵点劫」の違いは悟りの深さの違いということです。

 

 

三千塵点劫始成正覚の仏の悟り     (比喩蓮華)

五百塵点劫無始無終の本仏(如来)の悟り(当体蓮華)

 

 

物事は因果関係によって成り立ちます。それは因を元として果が生じる因果関係です。その真理は実体に即して顕れる仮諦の一念三千ですが、更に実体を空じることでより深い真理に辿り着きます。それが肉体を伴わない仏の空諦の一念三千です。

 

空諦の一念三千は仏の智慧としての「自受用身」です。応身(仮観)と報身(空観)が一身に同体で顕れると因果倶時の法身が顕れて一身即三身の本仏と成ります。

 

通教では、四禅天を中心とした仏の空観が詳しく説かれています。そして別教に入って仏よりも更に深い悟りの境地である応身・報身・法身の「三身如来」が説かれています。如来と仏の相違は、

 

 

仏 三千塵点劫(声聞・縁覚・菩薩)

如来五百塵点劫(応身・報身・法身)

 

 

このような関係になり、仏の世界観が空観(三千塵点劫)です。それよりも更に深い如来の悟りの世界観が中観(五百塵点劫)になります。

 

その仏と如来の関係が比喩蓮華と当体蓮華の関係であり、三千塵点劫の迹仏と五百塵点劫の無始無終の本仏(三身如来)の関係となります。

 

五百塵点劫の無始無終の本仏としての三身如来は、応身が「曼荼羅ご本尊」で報身が「事の一念三千」、法身が当体蓮華の「南無妙法蓮華経」となります。この三身が凡夫の一身に顕れて三身相即の無始無終の本仏となります。

 

 

<悟りの空・仮・中> (三身如来)

応身曼荼羅ご本尊

報身事の一念三千

法身南無妙法蓮華経

 

 

法華経 第三章(前編)『文底 – 当体蓮華』完(後編に続く)

 

2021522

法介