4-7 般若心経

 お釈迦様が阿含経の中で無我や十二因縁をもって説かれた縁起は、「此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」(パーリ仏典経蔵小部)といった「モノの有る無し」で見る実体思想に基づいて説かれた実在法としての縁起でした。これを此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)と言います。

 それに対し竜樹が般若心経をもって示した縁起は、「短があるから長があり、長によって短がある」といった相依性縁起(そういしょうえんぎ)で、人がモノを認識する働きの〝五蘊〟と、その五蘊によって立ち上がる〝実体〟との相互関係を般若心経の「色即是空 空即是色」の中に見出します。そして五蘊を全て空じる(五蘊皆空)ことで実体から抜け出た「非有非無」の空観に入っていきます(体空観)。 竜樹が般若心経で悟った体空観を説明します。般若心経は空を正しく理解出来ていないと正しい解釈は出来ません。

般若心経

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」

 観音さまは智恵の完成の修行を極められ、それを行う時

「照見五蘊皆空 度一切苦厄」

 五蘊を皆〝空(非有非無)〟とみなす(五蘊を空じる)ことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。

 小乗仏教では「モノの有る無し」の実体思想の縁起で空を展開(析空)してしまったが、大乗の竜樹はこの般若心経の「五蘊皆空」で縁起を起こして空観に入りました。空観とは実体思想から抜け出た「非有非無」の世界観を意味します。 五蘊の意味は、色・受・想・行・識の人がモノをモノとして認識する働きです。

 一切の苦しみや災いは、実体への執着から起こる訳で、その実体の世界から抜け出ることで苦しみや災いからも離れることが出来ます。空は「非有非無」なので全く何もない非実体空間ではありません。そこには目には見えませんが悟りへと導いてくれる〝智慧〟が眠っています。

 ちなみに「五蘊を空じる」とは、五蘊の働きを止めるという意味で、五蘊が働いて実体が生じる(縁起)訳で、その生じた世界を〝衆生世間〟といいます。衆生という実体(肉体)は五蘊が縁起で顕れた姿ですから。

 では五蘊を空じたこの非実体空間はといいますと、五蘊を空じることで立ち上がる世界〝五陰世間〟です。我々凡夫は現実という実体空間で生活していますが、その世界では「仮の一念三千」が展開されています。仏法(縁起)を知らない衆生は「仮の一念三千」が展開していますが、仏法を学んで縁起で物事を見れるような境涯(声聞)になると実在における真理(仮諦)を得て「仮諦の一念三千」として物事をより深く洞察していけるようになっていきます。

 ここでの見る(モノの見方)は〝観る〟ではなく〝見る〟です。「モノの有る無し」で物事を見ていますので、悪を悪と見て悪を攻撃します。創価学会や日蓮正宗が仏法を実践していながら互いに激しく罵りあっているのもこの原理です。「正直捨方便」を誤釈して、法華経以前に説かれた教えを捨ててしまっている彼等は、般若心経の中で説かれる大事な〝空〟や阿含経の中で説かれている〝無我〟を全く理解出来ていません。実体思想の中で仏法を展開する小乗の声聞の弟子達と同じように仏門に入りながらも未だ実体思想から抜けきらずにいる〝声聞〟という境涯です。

「舎利子 色不異空 空不異色」

 舎利子、色相(万物の姿)は空(縁起)に異ならず、空(縁起)は色相(万物の姿)に異ならず。

「色即是空 空即是色」

 色相(万物の姿)は即ちこれ空(縁起)なり、空(縁起)はこれすなわち色相なり。

 有名な「色即是空 空即是色」の言葉ですが、この言葉には実は深い意味がああります。それは、

    【色即是空】 「この世のあらゆるモノの姿(色)には実体はない(非有非無)」→空観

    【空即是色】 「縁起(空)によってこの世のあらゆるモノの姿(色)が仮に立ち上がっている(虚像)」→仮観

 「真諦と俗諦」の二諦説と言われる竜樹の空理ですが、実はその二諦で「空・仮・中の三諦」の〝空と仮〟が明かされています。〝中〟の部分は像法時代に入って仏法が中国に渡って不生出の天才僧侶〝天台智顗〟によって明かされていきます。

「受想行識 亦復如是」

 受想行識もまたまたかくのごとし。

「舎利子 是諸法空相」

 舎利子、この諸法の空相(空の世界観)は、

「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識」

 生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。故に、空観においては、色相もなく、受想行識も働かない。

「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界」

 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もない。眼界(視界)もなく、乃至、意識界(第六識)も働かない。

「無無明 亦無無明尽」

 無明もなく、また無明が尽きることもない。

「乃至無老死 亦無老死尽」

 しかも老いることもなく、また年老いて死ぬこともない。

「無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故」

 苦もなく苦を滅する方法もない。智もなく、また得もない。得る所無きが故に。

「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故」

 悟りを求める人の、般若波羅蜜多に依るが故に。

 「般若波羅密多」の〝般若〟とは「智慧」のことを意味しています。そして〝波羅密多〟とは、「彼岸に至る(浄土に至る)」ことを意味しています。つまり「依般若波羅蜜多故」とは「浄土に至る智慧に依るが故に」ということになります。

「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」

 心に罣礙なきが故に、恐れもなく、

「遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃」

 一切の顛倒夢想を遠く離れ、悟りを究(きわ)める。

 罣礙(けいげ)というのは もともとの意味は「覆(おお)うもの」という意味だそうです。そこから「心を覆っている雲が晴れること」という意味になり 「心に何のさまたげもない」という意味になります。妨げが無いので恐れもなく、すべての夢想していることや煩悩による誤った考えやあり方(顛倒のこと)から遠く離れ、最上の悟りの境地に達します。

「三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提」

 三世の諸佛も「真理に目覚める智恵」を得ることで覚りを開くことができた。

 ここでの「依る」というのは、真実に目覚める智恵を、たんに理解したり論拠にすることではなく、信じて疑わない深い会得を意味します。

「故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒」

 故に知るべし、般若波羅蜜多のこの大神呪、この大明呪、この無上呪、この無等等呪を。

 意味からすると、まるで「般若波羅蜜多」が真言であるように受け取れますが、これは「覚りに至るための智慧は、真言(真理の言葉)で表せる」ということを弟子達に諭したのです。そして、「その真言は、全ての苦しみを除いてくれる。なぜならその真言は真理そのもので、どこにも偽りがないからだ」と続きます。

「能除一切苦 真実不虚」

 よく一切の苦をのぞき、真実にして虚(むな)しからず。

「故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰」

 故に般若波羅蜜多の呪を説く。すなわち呪を説いて曰く、

 般若心経は最後にきて、仏さまとの合言葉(呪)の偉大さを説いています。 それは大きな悟りの「合言葉」で物事を明らかにする「合言葉」でもあり、この上ない「合言葉」です。この「合言葉」だけで、智慧を得るための力があるというのです。その真言のことを諭さんが為に、延々と「生じることもなければ、滅することもなく、云々」と説いてきたわけです。

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」

 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

 という真言の部分は、あえて訳すべからずとされています。訳してしまうと、意味が限定されてしまうし、言葉としての力も無くなってしまうと考えられています。が、三つの諦で示されていることはお解り頂けますよね。その後の「菩提」は「仏の悟り」、「薩婆訶」は成就するという意味になります。

「般若心経」

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