4-1 開三顕一

「諸佛世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したもう。」

 法華経方便品第二に示されるこの言葉は、仏はただ一つの大事をなす為だけにこの世に現れるという意味です。これを「一大事の因縁」といいます。「一大事」とは仏自らが悟った「智慧」を衆生にも開かせ、示し、悟らせ、そしてその境地に入らせることで、これを開示悟入の「四仏知見」といいます。

「一大事」について大聖人様は、『御義口伝巻上』(御書 P.717) の中で、

「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」

 と仰せになり、空・仮・中の三諦が円融することが南無妙法蓮華経であると御指南あそばされています。ではその「円融の三諦」とはどういうことなのか。

 まず一念三千の法門と空・仮・中の三諦の関係についてですが、一念三千の法門は、仮諦で捉えた一念三千と、空諦に転じた一念三千と、中諦に即した一念三千によって成り立ちます。そのことが『一念三千法門』( 御書 P.413)の中で次のように示されています。

「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり 千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり」

 創価学会や日蓮正宗では「一念三千の法門」を説明する際、必ず用いるのが「十界論」です。十界論は過去世の行いによってもたらされる現実社会の十界の差別の色相を説いたもので、上の御文の「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり」にあたります。

 日蓮正宗の教学では「開会」の意味を誤って解釈してしまっている為、学会員さんや日蓮正宗の法華講員さん達は、法華経以前に説かれた「空」および「無我・無自性」についての知識が大きく欠落しています。法華経以前の教えは全て法華経に集約されているので学ぶ必要はないと教えられているからです。ですから爾前経の中で説かれる「空理」や、それに関わる「無我・無自性」といった大事な教学の理解が出来ていません。

 その結果、日蓮正宗および創価学会の教学では仮諦で捉えた一念三千の解釈にとどまってしまい、その先にある空諦、中諦の悟りにまで至っておりません。

 法華経 方便品第二の長行の中で示される「開会」は、三乗に開いて説いた教えを一仏乗に顕す「開三顕一」のことです。三乗の教えとは、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗のそれぞれの境涯に即して説かれた三種の教えを指し、「乗」は乗り物の意で,衆生を迷いの世界から,悟りへと運ぶことを意味します。「顕一」とは仏界を顕すと言う事で、簡単に言えば、「三乗を説いて仏の道へと導く」と言う事です。

 法華経の内容があまりにも高度な為、お釈迦様はそれを諭すにあたって弟子達を三段階にわけて教化していきます。

蔵教でまず実体における真理を説き (阿含経等)
通教で実体思想から抜け出る理論を説き(般若心経)
別教で悟りの理論を唯識として説き(華厳経等)

最終的にそれらの教えを、

蔵教の実体における真理=仮諦 — 声聞
通教の空観における真理=空諦 — 縁覚
別教の悟りにおける真理=中諦 — 菩薩

といった三乗の教え(境涯に即した教え)として示され、円教の法華経で空・仮・中の三諦が円融して凡夫の一身に応身・報身・法身の三身如来が顕れる一念三千の法門が解き明かされます。

 これを法華経方便品の「開三顕一」といいます。

 法華経の前半部にあたる迹門は、このように「開三顕一」の説法が中心となって二乗作仏が説かれています。舎利弗をはじめとする声聞の弟子達は三周の説法を聞いて、今まで実践してきた声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の修行が全て一仏乗に集約されることを悟って成仏していきます。

 日蓮正宗では、この「開三顕一」を便品第二の「正直捨方便」の一節にもとづいて、方便として説かれた三乗の教えは捨てるべき教えであると解釈しています。ですから爾前経の中で説かれる空理や、それに関わる無我・無自性といった教学を学ぶ必要の無いものと捉えています。

 空・仮・中を説く三諦論は「空」を学んではじめて理解できる法論で、「空」を知らない学会員さんや法華講員さん達が空・仮・中の三諦を正しく語れるはずもありません。


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