1-5.人の判断

 では、実体(仮の姿)にとらわれない判断とはどのような判断なのかを例え話を用いて解り易く説明していきます。

 その前に少し、仏教のお勉強をしておきましょう。

 お釈迦様は「実体有り」を外道として、「無我・無自性」を説かれました。「無我・無自性」とは、事象には本質も実体も無く、ただ「縁起」によって仮に佇む姿が仮在すると説く仏の悟りの一つです。

 その仮の姿に捕らわれてしまうと人は謝った判断に陥ります。人の人生は一瞬一瞬が判断の連続でもあります。 朝何時に起きて、何を食べて、どうやって会社に向かうか、と常に判断が付きまといます。 そしてその判断を誤ると人生は不幸な方向へと向かっていきます。

 法華経で説かれる「一念三千の法門」は、その一瞬一瞬の判断を誤ること無く常に正しい判断へと導いてくれるとても有難い御法門です。

 では、喩え話しを始めます。とある高価な宝石を扱うお店があります。ある日、そのお店で従業員を雇うことになりました。この人なら大丈夫だろうと思って雇った人物が、ある人の話によると実はどうも良からぬ人物で、前に務めていたお店で売り上げを着服していたらしいという噂があると言うのです。そのような話を聞いてからというもの、お店の店長さんはその従業員の事をいつも色眼鏡(疑いの目)で観るようになります。

 この店長さんの状態が実体に執着している状態になります。この従業員さんは良い人なのかはたまた着服を行うような悪い人なのか・・・。その実態は・・・。

 店長さんは、判断に迷います。ではお釈迦様の教えを当てはめて考えてみましょう。まず、事象の方は「無我・無自性」本質も実体もない訳です。あるのは縁によって佇む仮の姿。店長さんには噂話しが縁となってこの従業員さんが悪い人に思えている訳ですがそれは仮の姿。従業員さんは無我であり無自称。

 では、「無である対象をどのように判断すればよいのか?」となると思います。そこでお題目を唱えながら考えるんです。ご本尊様は事の一念三千の当体ですから、ご本尊様と境智冥合出来た時、仏の悟り(正しい判断)を得ることが出来ます。

 しかし、学会員さんも法華講員さんもご本尊様に向かってお題目を唱えます。なのに何故心外に悪を実体化して相手を罵るといった判断に陥るのか。それは大事な「一念三千の法門」を客観癖で解釈してしまっているからです。主観で説かれた教えを客観で展開してしまっているのです。そこのところを次の章で解り易く説明してまいります。


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