1.相待妙と絶待妙
日蓮大聖人は『実相寺御書』の中で、
「夫れ法華経の妙の一字に二義有り一は相待妙・麤を破して妙を顕す二は絶待妙・麤を開して妙を顕す」
と仰せになり妙法には、麤法に対する妙法と麤法を開いて顕す妙法との二つの意義があると御指南あそばされています。
麤法(そほう)とは、粗雑な劣った法という意味で最高の教えである法華経の「妙法」に対する言葉です。「麤法を破して妙を顕す」というのは麤法と妙法とを比較対象することで、教えの勝劣を示して法華経を最高の教えとします。そうやって顕された法華経が「相待妙」です。
それに対して「絶待妙」は「麤法を開して妙を顕す」なのですが、そのことを大聖人様は『諸宗問答抄』の中で、
「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり」
と仰せになっております。「開会」とは、法華経の教えがあまりに高度過ぎて衆生にとっては難信難解な教えな為、お釈迦様は、本来は一仏乗の教えである法華経を声聞・縁覚・菩薩といった三乗の教えに開き、それぞれの機根に即した形で法を説いていきます。そして開いた三乗の教えを再び一つに会わせて集約して最後に法華経を顕します。この開いて示した三乗の教えを一つに会わせて示すことを法華経の「開会」といいます。
【三乗の教え】
声聞=蔵教 (但空の理) 仮諦
縁覚=通教 (不但空の理) 空諦
菩薩=別教 (但中の理) 中諦
【法華経の開会】
仏=円教 (一念三千) 円融の三諦
更に大聖人様は、『一代聖教大意』の中で次のようにも仰せです。
「相待妙の意は、前四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節(かせつ)と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す」
当分というのは“そのままそこで”ということで、ある限られた範囲内で論じる事をいい、跨節は、“節を跨ぐ”ということで、その小さな範囲を跨いで、より大きな視野に立って一重立ち入って論ずる事をいいます。
要するに相待妙は比較対象から理解する浅い法華経ですが絶待妙は一代聖教から理解するより踏み入った法華経であると御指南あそばされています。
開いた三乗の教えを「正直者方便」の教えのもと学ぶ必要は無い教えだと勘違いして捨ててしまっては正しい法華経の解釈には至りません。
空や無我・無自性は爾前権教で詳しく説かれた教えです。「空」を正しく理解出来てはじめて三諦の円融が何たるかの理解に至ります。
前回まとめた法華経 第一章(迹
門)はそういった一代聖教からひも解く法華経を解説したもので、そこで述べられている法華経が「絶待妙」としての法華経です。
『諸宗問答抄』の「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり」の御文の続きには次のようにあります。
「絶待妙というのは開会の法門である。このときには爾前権教と嫌って捨てたところの経を皆、法華の大海におさめ入れるのである。したがって法華経の大海に入るならば爾前の権教といって嫌われるものはないのである。皆、法華経の大海の不可思議の徳として南無妙法蓮華経という一味にしてしまうのであるから、念仏・律・真言・禅という別の名を呼び出すような道理は全くないのである。」
相待妙と絶待妙は別々にあるのではなく、妙の一文字の中に同時に含まれているというのが法華経です。別々と考えてしまうと、相待妙で法華経を第一とした後、爾前教は必要ありませんので捨てるだけになります。そのように比較対象の考えのみになってしまっているのが日蓮正宗や創価学会の誤った解釈です。
法華経を最高の教えとさとしたいのであれば、相待妙だけでよいはずですが、「二妙」ということですので、もう一つの妙があります。それが絶待妙です。絶待妙は、一代聖教がすなわち法華経であると考えます。
爾前経の中にも重要な法門がたくさん説かれています。それは捨てるべき教えではなく、法華経を正しく理解していく中で生きてくる教えなのです。(体内の権)
法華経が説かれた後は、念仏宗だとか真言宗だとか天台宗だとか言っても意味がないのです。どの水も海に流れ込めばみんな一同に塩味の海水になるのですから。すべては「法華経」に集約されるのです。
相待妙、絶待妙の考え方からすると、お釈迦様が説かれた一代聖教は、無駄になるものは何一つないということです。
現代用語では「相対」に対して「絶対」という言葉を用いますが、なぜここでは「相待・絶待」という字を用いているかについて、次に説明致します。
「相待」という言葉は「あいまつ」という意味で縁起という言葉と同じ意味をもっています。要するに「あいまつ」というのは、世の中の全ての事物は、それ自体が独立して成り立つものではなく、相互の関係の中で始めてその存在が成立するといった縁起の関係を含めた言葉なのです。
一人の女性はまず男性に対して女性といいます。そして、両親にむかっては娘であり、夫にむかっては妻であり、子にむかっては母です。
それぞれが、それ自らは「無自性」ではあるが、縁する対象によって女性として、また娘として、妻として、母として顕れます。何に縁するかによって意味合いが変わってくる、そのことを「相待」といった言葉で表しています。
更に、「相対」と「相待」の違いについて説明すると、たとえば電車の中で立っている人と、座席に座っている人がいたとします。相対では「立っている人に対して座っている人」ですから、「立っている人は座っている人よりも辛い」、「座っている人は立っている人よりも楽」、といった比較相対になります。(客観認識)
それに対して相待は、「立っている人がいるから自分は座れている」、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」、といった相互の関係の中の自分となります。(主観認識)
では、それぞれの文を「絶対」と「絶待」に展開してみましょう。比較相対の「相対」に対する言葉である「絶対」を用いると、「絶対座っている方が楽だよね」となります。
かたや「相待」に対する「絶待」はと言いますと、「立っている人がいるから自分は座れている」の文は、「ありがとう」の感謝の心へ展開され、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」の文は、他者貢献による自身の心の満足へと展開されます。
電車の中のささいな出来事ですが、それを比較相対で認識すると、「座っている方が楽だ」という欲が自身の心に生じます。
しかし「相待」で認識すると感謝の心や心の満足を得ることが出来ます。これが相待妙と絶待妙の二妙の力用です。
比較相対で物事を認識する生き方は。我欲が中心となって煩悩に覆われて苦しみの人生となっていきます。相待妙と絶待妙の二妙の力用を備えた妙法(法華経)の認識の中に心をおいてこそ真実の幸福な人生を感じ取っていけるのです。
2.教相と観心
「相待妙」では、お釈迦様が説かれた一代聖教を五時八教に分類わけして比較対象し、その勝劣をあきらかにする訳ですが、それは文字によって示された教相による判別で、「教相判釈(はんじゃく)」と言います。
その「教相」に対する言葉で「観心」があるのですが、『観心(の)本尊抄』で大聖人様は、
「観心とは我が己心を観じて十法界を見る 是を観心と云うなり」
と仰せになり、十界曼荼羅の御本尊を「観心の本尊」として顕されました。御文の中の「己心を観じて十法界を見る」とは、十界曼荼羅を本尊として崇めて「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えた時、自身の心が観じて十法界を見ることが出来るということです。
御本尊は仏の十法界が示されており、我々凡夫は凡夫の十法界です。人の心は意識から成ります。意識が遠のくことで人は死を迎えます。しかしそれは、表層の意識が停止しただけであって死後も深層意識として意識は存在し続けます。
歴劫修行によって肉体から解脱した阿羅漢は天界に留まり、そうでないものは六道輪廻をくり返します。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の欲にまみれた六つの境界でこの六つをまとめて欲界と呼びます。
その欲界の上に色界があって更に最上部に無色界が存在します。この三つを三界と称して仏法の世界観は形成されています。
凡夫が住処とする欲界の上に位置する色界は、禅定によって肉体から解脱し、淫欲と食欲の二つの欲を離れた穏やかな境地です。しかし、因縁によって再び欲界に転生するので欲界と等しく未だ物質的要素を含んだ世界です。
欲界が六道が住む世界なのに対し、色界は声聞・縁覚・菩薩・仏の住む世界とも言えます。
三つ目の無色界は、物質的なものから完全に離れた如来の住む真如で、三界の最上部に位置します。ここに位置する如来を法身如来と呼び、法身如来が色界まで降りてきて声聞・縁覚・菩薩に対して法を説くのが報身如来、そして欲界の凡夫にも認識出来る姿で地上に現れるのが応身如来です。
【法身】(無色界) – 色も形もない真理(法)そのもの。真如。
【報身】(色界)
– 声聞・縁覚・菩薩の三乗は修行の果徳として仏の法を受け用いる。果徳の受け方には以下の二種がある。
自受用身 – 自らに法楽を受け用いる。(一念三千)
他受用身 – 衆生に法楽を受け与える。(阿弥陀仏)
【応身】(欲界)
– 衆生に応じて出現する仏。地上に出現したお釈迦様。
この三界を別々にみるのが爾前権教の教えで、実教の法華経では三界が凡夫の一身にあらわれると説きます。
方便として説かれた阿弥陀仏は「他力本願」の他受用身ですので報身仏です。三身も三界も別々に位置する爾前権教の教えなので欲界の凡夫を他界の仏が救っていきます。
対して法華経で説かれる一念三千は、自受用身の報身です。法身は「南無妙法蓮華経」で凡夫の体が応身で、この法身・報身・応身の三身が凡夫の一身にあらわれて三身即一身の本仏(真実の仏)の三身如来と成ります。
大聖人様は伝教大師の言葉をかりて「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」と仰せになられています。
御本尊に向かってお題目を唱えることで、己心に十法界を観じて即身成仏の本仏となります。それが「観心の本尊」の観心の意味するところで、一念三千の仏の智慧(自受用身)を観じとるということです。
三身相即なるが故に、一念三千は自らに法の果徳を受け用いる自受用身ですが、それ以外の仏像等の本尊は三身が別体の他受用身ということで権仏(仮に示された仏)となります。
3.四土
「依正不二」という教学用語がありますが、これは依報と正報とが不二の関係にあることを示す言葉です。
依報・正報の「報」とは、「報い」の意で正報とは仏法の修行の「因」を積んだ声聞・縁覚・菩薩の三乗が、修行の報いの「果」として法楽をその身に受けることを意味します。
そして、それぞれの修行者がその報いを受ける為のよりどころとなる環境や国土のことを依報といいます。
修行が進んでいく中で、悟りが深まっていくと、その悟りにともなってあらわれてくるそれぞれの依報も変化していきます。それを示したのが「四土」という四種の修行者の国土空間です。一念三千の御法門の三世間の国土世間のお話です。
四土は、凡聖同居土、方便有余土、実報無障礙土、常寂光土の四つの国土のことをいいます。それぞれの説明は以下の通りです。
【凡聖同居土】
略して同居土。迷いの凡夫と覚りを得た聖人とが、ともに存在する国土をいう。この国土の仏身は劣応身とされる。
【方便有余土】
略して方便土。見思惑を断じた声聞・縁覚の二乗が生まれ住む国土のこと。すなわち方便の教えを修行して、煩悩の一部を断ずる小乗経の聖者が住む国土をいう。阿羅漢・辟支仏(縁覚)のように方便道を修行して一切の煩悩を仮に断じたゆえに「方便」といい、いまだ元品の無明を断ずることができないゆえに「有余」という。この国土の仏身は勝応身とされる。
【実報無障礙土】
略して実報土。無明の煩悩を段々に断じて、まことの道理を得た菩薩の住む国土をいう。実報とは真実の仏道修行をすることの報いとして、必ず功徳が現れること。この土は他受用報身を教主とすることから受用土とも呼ばれる。この国土の仏身は他受用身。
【常寂光土】
本仏・円仏が住む国土。迹土に対して本土ともいう。『観無量寿経疏』に「常寂光とは、常は即ち法身、寂は即ち解脱、光は即ち般若、是の三点縦横、並別ならざるを、秘密蔵と名づく。」とある。法身・般若・解脱とは仏にそなわる三種の徳相のことで、法身とは仏が証得した真理、般若とは真理を覚る智慧、解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態をいう。法身が法身如来、般若は報身如来、解脱は応身如来としてあらわれる。それが時系列的・並列的ではなく円融して不縦不横となる。この国土の仏身は自受用身。
四土を悟りの側面に照らして示すと次のようになります。
【同居土】 蔵教=但空の理 (声聞)仮諦
【方便土】 通教=不但空の理(縁覚)空諦
【実報土】 別教=但中の理 (菩薩)中諦
【常寂光土】 円教=一念三千 (仏) 円融の三諦
蔵教で但空の理を悟った声聞が、通教で不但空の理を悟って縁覚へと境涯を高め、別教で但中の理を悟って菩薩となり、円教で一念三千の悟りを得て仏となります。
そのことを天台大師は摩訶止観の中で「円融の三諦」として顕しました。文字によって示された「円融の三諦」は教相の法華経です。観念観法によって自力で己心の十法界を見ようとします。それに対して日蓮大聖人の「観心の本尊」は、御本尊の徳用によって己心の十法界を直ちに観じ取ることが出来ます。これを「直達正観(じきたつしょうかん)」と言います。
天台は、止観法を用いて無意識層に意識を向かわせることで己心の十法界を見ることが出来た訳ですが、しかしそれは、過去世において仏に会い直接の教えを受けて一切の煩悩を断ち、何度も生死をくり返すなかで同居土、方便土、実報土、そしてその果てに常寂光土へと向かう気の遠くなるような歴劫修行な訳でして、仏に会ったこともない末法の本未有善の荒凡夫達がとても成し得るものではありません。
末法の衆生が自力で己心の十法界を見ることはまずあり得ません。どんなに頑張っても見れるのは九界までです。過去世において仏との縁がありませんので法に対する「因」が無いため報いとしてあらわれる「果」は実り得ません。仏果を得る事はあり得ないのです。ですから末法には仏に相当する徳用を備えた本尊が必要不可欠となります。
4.因行果徳の二法
仏の悟りを得るということは、仏の法に対する因(修行)を積んでその報いとして悟りとしての果を得るということです。
仏法修行者が、仏の悟りを修得するまでの全ての修行のことを万行といいます。仏の「五十二位」の悟りや、菩薩が行ずる六つの修行過程「六即」の行位がこれにあたります。これらを因位の万行といいます。
そしてその修行の因の報いとして受ける仏に備わる全ての功徳相を果位の万徳といいます。
大聖人様は、『観心本尊抄』で次のように仰せです。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給(たも)う」
ここで仰せの「因行果徳の二法」とは、今ご説明しました「因位の万行」と「果位の万徳」のことを言います。
歴劫修行が根幹となっている釈迦仏法では、三祇百大劫という気が遠くなる程遥かに長い年月の間に転生し、修行を行わなければ成仏することは出来ません。
仏に成る因を積んでその結果として成仏という果報を得るといった因と果に長い時間差が生じる「因果異時」の立ち場で説かれた厭離断九の仏だからです。因と果に隔たりがあるため個別に説かれた空仮中の三諦も隔たった隔歴(きゃくりゃく)の三諦となります。
それに対して日蓮大聖人の仏法は、受持即観心を説いた「因果倶時(いんがぐじ)」の仏法で因と果が同時に備わります。妙法を唱うる一念に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」とありますように三世十方の諸仏のあらゆる因位の修行も果位の万徳も妙法蓮華経の五字に同時にそなわっているのです。
空仮中においても三即一、一即三と言いまして三は一に即し、一は三に即して相即相入して三諦が円融します。
一念三千の法門は、客観認識で解釈した実体に即した仮諦の一念三千と、主観に即して五蘊を空じることで観じとる空諦の一念三千と、仏の悟りに即して三身が我が身に顕れる中諦の一念三千とがあります。
仮諦の一念三千は日蓮正宗や創価学会の客観認識で展開された差別相からみた一念三千です。善悪といった分別観から離れることが出来ていないため互いの存在を悪と決めつけて罵り合っているのが実情です。
善も悪も自身の分別する心から生じているのだと客観認識から離れて五蘊を空じることで対象の捉え方が180度変わって見えたりもします。それが空によってもたらされる一念三千です。
空の一念三千は、いうなれば「気づき」とでも言いましょうか、見方を変えることで今までは悪人と思い込んでいた人物が実は善人だったというような話に喩えられます。
気づきの先に悟りがあります。仏の悟りは我々凡夫の想像を遥かに超えるものでそれは言葉では言いあらわせません。体験することで確信していきます。まさに信をもって会得するものです。
その悟りの世界観に我が身がつつまれて法身・般若・解脱の仏の三種の徳相が中諦の悟りの一念三千として顕れます。
【法身】とは仏が証得した真理。(法身如来)
【般若】とは真理を覚る智慧。(報身如来)
【解脱】とは生死の苦悩から根源的に解放された状態。(応身如来)
客観で認識できる現実にあらわれた色相を中心に十如是が働くと仮の一念三千が広がって自身をとりまく仮の世界が立ち上がります。(衆生世間)
客観世界を立ち上げている自身の五蘊を空じ、心から生じると書いて「性」を中心として十如是が働くと、実体への執着が離れて心を中心に空諦の一念三千を観じとることが出来ます。(五陰世間)
表層の意識をとらえていた心(六識)が、末那識(七識)・阿頼耶識(八識)と深層へと向かうことで、認識の変化が起こります。そして奥底の「九識心王真如の都」である南無妙法蓮華経という仏の因行・果徳の二法を譲り受け給って中諦の悟りの一念三千が顕れます。(国土世間)
このように凡夫の一身に空・仮・中の三諦が円融して顕れるのが一身即三身、三身即一身の三身相即の円融の三諦です。そのことを大聖人様は、『一念三千法門』の中で次のように仰せです。
「此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす 是れ僻事にて二義かけたり 天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、 第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ 如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり 是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり 八万四千又は般若とも申す、 第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり 是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり 是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり 又は解脱とも申す、 第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり 是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、 此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す 此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す」
この御書は、大聖人様が三七歳の御時、いまだ観心の本尊を顕される以前に顕された御書なので、教相の立場で一念三千の法門を示されています。ですから「此の一念三千一心三観の法門は」と観法(止観法)とまず述べて論を走らせ天台の教相の法華経をもって三諦の円融を御指南あそばされております。
そして十如是の三遍読に示されるように法華経(もしくは釈迦像)を本尊とした読誦の「教相の法華経」がここでは示されています。
三諦の円融にも教相と観心の違いがありますが、その違いが文上の理の一念三千と文底の事の一念三千の相違です。
観法や仏像を本尊とする修行法はすべて教相の法華経で、大聖人様は52歳の御時に『観心本尊抄』を顕して「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と末法に於ける本尊を「南無妙法蓮華経」と定められました。
私たち末法の凡夫は、因果の功徳を摂(おさ)めた妙法五字の御本尊に向かい唱題に励むとき、受持即観心の義が相成って、仏が証得された因果一念の功徳を自然に受けたまわることができるのです。
5.方便品第二
法華経は二十八品からなり、前半十四品の迹門と後半十四品の本門から構成されます。前半の中心となるのが法華経第二の「方便品」で、その教えには主に次のようなものがあります。
1.諸法実相
2.十如是
3.一大事因縁
4.開三顕一
大聖人様は『三大秘法抄』の中で「一念三千の証文は如何に」と問われて次のように返答されます。
「問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」
一つは「方便品」の諸法実相として示された十如是と衆生をして仏知見を開かせ、示し、悟らせ、入らしめ(開示悟入)ようとする仏の一大事因縁の御文。
もう一つは「寿量品」の「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の本地を明かす御文。
「寿量品」の方はまた後程ご説明させて頂くとしましてここでは「方便品」に絞って解説させて頂きます。
図書館に行くと「大正蔵」という漢訳大蔵経を読むことが出来ます。大正蔵は、正蔵(中国所伝)55巻、続蔵(日本撰述)30巻、別巻15巻(図像部12巻、昭和法宝総目録3巻)の全100巻から成る漢訳の仏典の最高峰と呼ばれている大蔵経です。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっています。
「大正新脩大藏經」
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php
データベース版の大蔵経では「方便品第二」は、鳩摩羅什による漢訳で、
T0262_.09.0005b24: 6妙法蓮華經方便品第二
から始まります。「T0262」はデータベース版での振り分け番号でその次の「09」が書籍の第9巻を示し「0005」がその巻内のページ数で「b」はページ内の上段(a)・中段(b)・下段(c)を意味します。最後の「24」はその段の先頭行から24行目ということです。
大聖人様が一念三千の証文とされている箇所は、
T0262_.09.0007a21: 能知之。所以者何。諸佛世尊。唯以一大事
から始まります。私達が日ごろ目にしない「方便品長行」の部分です。以下①~③の三つのパートに区切って説明していきます。
所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世①。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世②。
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来但以。一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三③。
真読で①の分段を抜粋すると、
①[真読]
所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。
でこれを訓読に訳すと次のようになります。
[訓読]
所以は何ん、諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうと名くる。
仏はただ一大事の因縁を以てこの世に出現するという箇所です。②へ続きます。
②[真読]
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
[訓読]
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。
「開示悟入」の四つの仏知見を示す箇所ですが、この四仏知見は、十如是を三つの教えに開いて蔵教・通教・別教として示し、空・仮・中の三諦を悟らせ南無妙法蓮華経の一仏乗の円融の三諦へと入らせるという「開三顕一」の意義が含まれています。
『御義口伝』の中で大聖人様がそこのところを詳しく御指南あそばされていますので後程紹介させて頂くとして③に進みます。
③[真読]
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。
[訓読]
仏、舎利弗に告げたまわく、諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし。
この分段の中で「唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわん」の文を『御義口伝』に習って解釈すると、「仏の知見とは即ち応身と報身をもって衆生に三乗の教えを示し、悟りをもって常寂光土へ入らせたもう」となります。そして「仏の教えは一仏乗であって、衆生の機根に合わせて説いたもので、他経のように二乗、三乗とあるものではない。」と示されています。
更に15進んで、
T0262_.09.0007b18: 故。欲令衆生入佛*之知見故。舍利弗。我今
舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。以種種因縁。譬喩言辞。方便力故。而為説法。舎利弗。如此皆為。得一仏乗。一切種智故。舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。舎利弗。諸仏出於。五濁悪世。所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。慳貪嫉妬。成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別説三。
【現代語訳】
舎利弗よ、われも今、またかくの如し。諸の衆生に、種種の欲と深く心に著する所とあることを知りて、その本性に随って、種種の因縁と譬喩と言辞と方便力とをもっての故に、しかも、ために法を説くなり。舎利弗よ、かくの如きは、皆、一仏乗の一切種智を得せしめんがための故なり。
舎利弗よ、十方世界の中には、なお二乗すらなし。何に況や、三あらんや。舎利弗よ、諸仏は、五濁の悪世に出でたもう。謂う所は、劫濁と煩悩濁と衆生濁と見濁と命濁との、かくの如きなり。 舎利弗よ、劫の濁乱の時には、衆生は垢重く、慳貪・嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏は方便力をもって、一仏乗において分別して三と説きたもう。
ともある。また『法華経 譬諭品第三』にも次のような御文があります。
T0262_.09.0013c13: 如來亦復如是。無有虚妄。初説三乘引導
初説三乗。引導衆生。然後但以大乗。而度脱之。何以故。如来。有無量智慧。力無所畏。諸法之蔵。能与一切衆生。大乗之法。但不尽能受。舎利弗。以是因縁。当知諸仏。方便力故。於一仏乗。分別三説。
【現代語訳】
初め三乗を説きて衆生を引導し、しかして後、但、大乗のみをもって、これを度脱するなり。何をもっての故なりや。如来には無量の智慧・力・無所畏の諸法の蔵有りて、能く一切衆生に大乗の法を与うるに、但し、尽くは受くること能わざればなり。舎利弗よ、この因縁をもって、当に知るべし、諸仏は方便力の故に、一仏乗において、分別して三と説きたもうなり。
またページをまたいで「T0262_.09.0014c28」から「T0262_.09.0015a02」にも、
【現代語訳】
また教え詔すと雖も、しかも信受せず、諸の欲染において、貪著すること深きが故なり。ここをもって方便して、ために三乗を説きて、諸の衆生をして、三界の苦を知らしめ、出世間の道を、開示し演説するなり。
とあります。これらの文章から開示悟入とは「三乗に開いて教えを示し悟らせ一仏乗に入らせる」ということが読み取れます。
6.御義口伝
『御義口伝(おんぎくでん)』は日蓮大聖人の講述を弟子である日興上人が筆録され、大聖人様の御允可(許可)を得て書かれた「寿量文底下種の法門」が明かされている御相伝書です。
その『御義口伝』の「第三 唯以一大事因縁の事」の中で大聖人様は、「方便品第二」について次のような御指南をされています。
「此の大事を説かんが為に仏は出世したもう 我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり」
この御文の内容を分かり易く解説してまいります。
仏は「一大事の因縁」を説かんが為にこの世に出現します。我らの一身が妙法五字であると悟った時が即身成仏なのです。「開示悟入」の四仏知見の開くというのは信心の別名です。
「信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり」
の御文の意味は、南無妙法蓮華経と唱え奉るならば我が身が即、空・仮・中の三諦と開くということです。
「然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり」
その信心を開くにあたり、南無妙法蓮華経を声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えとして示すことが示仏知見と云うのです。
「示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり」
三乗の教えの中で示された悟りの国土が一身に現われるを悟ることを悟仏知見といいます。
「悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり」
直至道場(じきしどうじょう)とは、「直達正観」といって瞑想や禅定をするまでもなく直ちに即身成仏することを言います。私達の身にあてはめるなら御本尊と境智冥合した当にその体こそが当体蓮華の入仏知見となります。
「然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり」
空・仮・中に開いた三諦を正意とするのですが、入仏知見の入の字は迹門の意で解釈すると実相ではあるものの理の範囲内での悟りであって、本門に入って考えると入の意は理論を超えた悟りそのものになるのです。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり
、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり」
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入ることであり、開仏知見の「仏」とは九界所具の仏界であり、「知見」とは妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法であり、色心因果であり、所詮知見とは妙法をみることであり、九界所具の仏界を法華経の知見にて開く事です。
この部分は少しわかり難いので、もう少しかみ砕いて説明します。
止観の二字については、
【止観】
仏教では瞑想を止と観の二つに大別する。止とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することで観とは、不動の心が智慧のはたらきとなって事物を真理に即して正しく観察することをいう。このように止は禅定に当たり、観は智慧に相当する。ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱したとされる。
とあるように「真理(止)と智慧(観)」ということです。寂照の二徳は、
【寂照】
寂照とは、小乗に説く「寂滅」に対する語。小乗教では「生滅滅已・寂滅為楽」とあるように、煩悩を断じ尽くし、生死をはなれるところに悟りがあるとする。それに対し、大乗で説く「寂照」は、煩悩即菩提であり生死即涅槃のことである。此の土こそ常寂光土と説き、この世をはなれて悟りはなく、この身体はそのまま常楽我浄なりと説く。
とありますように煩悩(寂)即菩提(照)となります。
生死の二法は、「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」と仰せになられるように「体の仏と用の仏」の倶体倶用の関係を示し、色心因果は「色心の二法十如是是なり」と仰せになられております。
妙法の二字の解釈は、様々な言葉が含まれてきますので判断が難しいところですが「妙法の二字に諸仏皆収まれり」との御指南からここでは「諸仏の智慧」と解釈しておくのが妥当かと思われます。そういったことをふまえて、
「知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり」
の御文を解釈すると、「知」は真実を知るということで色心の因果は十如実相に収まるということで、「見」はありのままを見るということではないでしょうか。止観の止がまさにそれにあたります。また寂照の二徳とは煩悩即菩提で、生死の二法は仏の用の働きと凡夫の体の働き(具体具用の仏)で、それらをふまえて妙法の二字には一切の諸仏の智慧が収まるのです。
要するに「仏知見」の「仏」は法身、「知」は報身、「見」は応身を意味し、九界所具の仏界(法身)を法華経の知(報身)見(応身)で開くという意味で、即ち、法華経に説かれている諸仏の智慧で凡夫の奥底に眠る仏界を開くということです。
『御義口伝』ではこの「四仏知見」の御指南の後に、続いて「一大事因縁」の説明文が示されています。
「又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦のことであり、この円融の三諦は何物ぞというと南無妙法蓮華経是なのです」
「仏は一大事の因縁により世に出現する」といった方便品の御文についての御指南ですが、先の「開示悟入の四仏知見」が凡夫の仮諦の一念三千なのに対して、この「一大事因縁」は本来、実体を空じて天上界に住する仏が、空を空じて(非空)下界に出現します。その仏の空諦の一念三千であり、性(如是性)を中心とした十如是が展開して空諦の一念三千が開かれます。
応身として現れたお釈迦様が報身の一念三千の法門を説いて衆生を仏界(法身)へと入らせるといった悟りの面で空・仮・中が開かれて体(如是体)を中心に十如是が展開され中諦の一念三千が応身・報身・法身として凡夫の一身に顕れて三身即一身の本仏となります。
「仏知見」はそういった仏(法身)知(報身)見(応身)を意味しています。
凡夫には凡夫の一念三千があり(仮諦の一念三千)、仏には仏の一念三千(空諦の一念三千)があります。これを体の仏(凡夫)、用の仏(仏)といいまして南無妙法蓮華経で境智冥合して「倶体倶用」の本仏となります(中諦の一念三千)。
これが「九界所具の仏界を法華経の知見にて開く事です」という大聖人様の御指南です。
7.多宝如来
先ほどの解説文の中で、「入仏知見の入の字は迹門の意で解釈すると実相ではあるものの理の範囲内での悟りであって、本門に入って考えると入の意は理論を超えた悟りそのものになるのです」とありましたが、これは「理の一念三千と事の一念三千」の話です。
仮諦の一念三千は実体に即した実相の話なので、言葉で説明出来る一念三千です。良く耳にする三千の差別の色相として語られる十界論です。
空諦の一念三千は、空を説く『般若心経』のなかで不垢不浄(ふくふじょう)の教えとして、心から生じる「性」から立ち上がる認識世界として語られます。
では、中諦の一念三千は、と言いますとこれは仏の悟りの境界で展開する一念三千で、お釈迦様が舎利弗に対して「言葉では言いあらわせない」と言い放った、理論を越えた悟りそのものの境地です。
理の一念三千は言葉で理論的に語り伝える事が出来るのですが、この悟りの一念三千だけはそうはいきません。概念から抜け出た真理としての事の一念三千ですから。
それが先にお話ししました「教相の法華経と観心の法華経」の違いなのです。
我々が現実として認識している世界は、縁起によって仮に佇む仮の世界で、その仮の世界は衆生世間・五陰世間・国土世間の三世間で形成されています。
この仮のなかの三世間は、衆生世間が仮(相)、五陰世間が空(性)、国土世間が中(体)となって仮の中で更に空・仮・中が互具して三三九諦を成します。
実体思想(客観認識)で世間や人々を認識する事で、善悪の分別の差別の色相が生じてきます。それが仮の一念三千の世界観です。
実体思想は五蘊の働きから起こるもので、その五蘊を空じることで仮のなかの空である五陰世間を中心にした「空の一念三千」を開く事が出来ます。
そして御本尊と境智冥合することで仮のなかの「中」へと入って煩悩を菩提へと転じる「中」の悟りとしての一念三千が開いて煩悩が寂滅した寂光土が国土世間として顕れます。
お釈迦様は本来、五蘊を空じた実体から解脱した空の空間に住んでいます。『寿量品』の自我偈の中に書かれている世界です。
「私の住む世界は安らかで天人や人々で一杯です。その国土の花園や宮殿は、種々な宝石で飾られ、木々には多くの花や実がなり、人々はそれらを楽しんでいます。天人たちは天の楽器をならし、常に多くの音楽を演奏し、マンダラの花が仏や人々の上に降り注いでいます」
空を住処とするお釈迦様は、我々仮を住処とする凡夫と違い、空の中で空・仮・中が展開します。お釈迦様は空を空じる(非空)ことで有の実在世界に出現します。その地上に出現したお釈迦様が、法華三昧にふけると実在の有が滅して「非有」となって再び空の世界へ舞い戻ります。空理(空の理論)の中で良く目にする「非有」とか「非空」といった用語はそういった意味で用いられます。
凡夫の仮の世界が「立有」とか「亦有」とかで表現され、お釈迦様の空の世界が「非有」とか「滅有」とかの言葉で表現されています。同じ仮の世界に実在していても元々の立ち位置(住処)の違いから凡夫は「亦有」でお釈迦様は「非空」で表現されます。
三昧という言葉は、良く勉強三昧とか仕事三昧とか言ったりしますが本来は瞑想にふける行為をさして言った仏法用語なのです。精神集中が深まった状態のことです。
お釈迦様は「無量義経」という経典を説いて、無量義処三昧に入ってから法華経の説法を始めたという記述が残っていますので法華経は空の空間で説かれたということです。ですから肉体から解脱した空間なので宝塔が宙に浮いて出現したり、如来が飛来して来たりの非現実の「虚空絵の儀式」が成り立つのです。
応身仏として空の世界から仮の実体世界へ舞い降りてきたお釈迦様は、自らの姿を劣応身・勝応身・他受用身・自受用身と変化させ、蔵・通・別・円の四つの教えをそれぞれ説いて衆生に示し、一念三千の自受用身をもって衆生を悟らせ、仏の境地である仏界の法身へと入らせます。
【劣応身】 身体を伴って蔵教を説いて声聞の弟子達を教化する応身のお釈迦様の姿。
【勝応身】 肉体を伴わず通教で竜樹や天親(世尊)の縁覚達(辟支仏)に空を説く知恵の象徴としての観音菩薩(般若心経で空を説く)の姿。
【他受用身】別教で九界から離れた浄土を説いて衆生を悟りに導いた大日法身
や阿弥陀如来、毘盧遮那仏などもお釈迦様の化身としての姿。
【自受用身】衆生が視覚で認識出来る「応身仏」から智慧としての「法」に転じた「報身仏」としてのお釈迦様の姿。それが法華経であり一念三千の法門。
経典に説かれている観音菩薩や阿弥陀仏、大日如来などは、お釈迦様が真理をあまねく一切衆生に悟らしめんが為に知恵を客体(お釈迦さまの意志や行為が及ぶ目的の譬えの対象として人格化した姿)として表現されたものです。
では法華経に登場する「多宝如来」はと言いますと、それとは違ってお釈尊様以前に悟りを開いた無数の過去仏の中のお一人で、東方無量千万億阿僧祇の宝浄国に住するといわれる仏様です。「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」という意味でそれ程はるか遠い昔に既に悟りを開かれた仏様です。
法華経信仰に基づいて釈迦仏とともに二体一組で表される場合がほとんどで、そのように釈迦仏と多宝仏を一対で表すのは、法華経第十一品の『見宝塔品』の次の説話に基づいています。
「釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった」
法華経は凡夫と仏が而二不二で倶体倶有の本仏として顕れることが説かれた経典です。その事からひも解くと久遠で菩薩の修行をしていたお釈迦様を成仏へと導いた仏様が多宝仏だったということになります。
日蓮正宗では日蓮本仏論を正当化する為の教学として「久遠においてお釈迦様は大聖人様の元で修行して仏になった」としていますがちょっと無理のあるお話です。その話をしだすと長くなりますのでまた別の機会にお話するとしまして、要は凡夫と仏は常に一体となって表裏の関係で存在するという事が言いたのです。
「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云 此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし(明らかである)、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観(摩訶止観)に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
『生死一大事血脈抄』の「生死の一大事」の言葉の意味は、「死ぬか生きるかの一大事」ではありません。「仮の世界に生きる凡夫(仮観)と、空の世界に死する仏(空観)の空・仮・中」という意味なのです。
『御義口伝』
「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦のことであり、この円融の三諦は何物ぞというと南無妙法蓮華経是なのです」
8.四句分別
インドの論理学に「四句分別」というのがありまして、竜樹はこれを用いで空の理論を「中論」という著書にまとめました。
その著作から「中観派」と呼ばれる大乗仏教の一大学派が生まれます。当時のインドは小乗仏教が主流でしたが、未だ悟りは得ていないものの、仏道に励む菩薩の立場で衆生救済を目的として大乗仏教が広まります。
その竜樹が用いた「四句分別」は、
1.肯定(Aである)
2.否定(Aではない)
3.肯定かつ否定(Aであり且つAではない)
4.肯定でも否定でもない(AであるのでもなくAでないのでもない)
といった四つの立場の主張です。この四句分別で竜樹は「空」を実在の「有」に対して「有」でも無く、かと言って「無」でもないとした「非有非無」として定義します。
空は、実在の世界を立ち上げている五蘊を空じることで煩悩を断ち切ろうとする訳ですが、五蘊を完全に消滅させるものでは無いので「空」を「無」とはせず「非有非無」とします。
【竜樹の空理】
六道‐俗諦(有)
三乗‐真諦(非有非無)
このように六道を「俗諦」、声聞・縁覚・菩薩の三乗を「真諦」として竜樹は「二諦説」を唱えます。この時代(正法時代)は、“仏”が説かれていませんので「縁起」を真理(中道)として「凡夫の空・仮・中」を竜樹が顕します。
像法時代に入って仏法が中国に渡り天台智顗が、有でもあり空でもある「亦有亦空」の而二不二の「中道」を別教を通して示して、仮観・空観・中観の「一心三観」を顕します。
【天台の三観】
仮観‐有(俗諦)
空観‐空(真諦)
中観‐亦有亦空(中道)
天台のこの三観は、修行者における心の観法で、心に「仏の空・仮・中」を観じ取っていきます(空観)。具体的にはお釈迦様が仏として示された仏の空・仮・中の姿です。(劣応身・勝応身・他受用身・自受用身)
【釈迦の空・仮・中】(仏の空・仮・中)
実在の釈迦‐仮 非空
始成の釈迦‐空 非有
久遠の釈迦‐中 非有非空
肉体を伴う凡夫の空・仮・中(三観)を「四句分別」であらわすと、「有・空・亦有亦空」となりますが、解脱して天界(色界)を住処としている仏は肉体が寂滅した「空」の空間に存在しています。一大事の因縁によって再び肉体を伴って空を空じて「非空」で地上に出現します。やがてお釈迦様は菩提樹の下で、全ての「有」を滅して「非有」で悟りの境地に入ります。
法華三昧で「有」を滅して「非有」で空観に入って法華経の説法を始めます。そして『寿量品』で、
「我は実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
と久遠に成仏した事を明かして「非有非空」となって無始無終の法身の仏と成ります。
上図の「実在の釈迦」は生まれて死んでいく「有始有終」の応身の仏です。そして悟りを開く事で全ての「有」を滅した始成正覚の釈迦は、「無終」となります。しかし生まれてきた事実は存在しているので「有始無終」となります。
しかし久遠の昔から仏であったと『方便品』の中で明かされることで「無始無終」の真の法身となります。そのことが御書の『一代五時鶏図』の中で次のように示されています。
┌ 応身───有始有終
始成の三身 ┼ 報身───有始無終
├──真言大日等
└ 法身───無始無終
そして天台は、「凡夫の空・仮・中」と、「仏の空・仮・中」を応身・報身・法身の「悟りの空・仮・中」で開くことで三観・三諦を円融させます。そこの所をかみ砕いて分かり易く説明すると、まず
<隔歴の三諦>
【凡夫の空・仮・中】(仮)
仮観‐仮
空観‐空
中観‐中
【仏の空・仮・中】 (空)
仮諦‐仮
空諦‐空
中諦‐中
【悟りの空・仮・中】(中)
応身‐仮
報身‐空
法身‐中
の三観・三諦・三身が空・仮・中を成します。分かり易いように凡夫の空・仮・中を黑文字で、仏の空・仮・中を緑文字で、悟りの空・仮・中を青文字にします。
上の状態ですと凡夫は凡夫の中で空・仮・中します。仏も同じで仏の中で空・仮・中し、悟りの空・仮・中も三身が空・仮・中します。この状態が「隔歴の三諦」です。
天台は、凡夫の三観の中観で「而二不二」をまず悟らせます。実在への執着を「縁起」と「無我・無自性」を示して仮から空へ意識を転換させます。そして中観の「而二不二」を悟ることで凡夫が仏の空・仮・中を観じて悟りの空・仮・中へと入っていきます。
<円融三諦>
【仮諦の一念三千】
仮観‐仮‐①
仮諦‐仮(縁起・無我)
応身‐仮(而二不二)
【空諦の一念三千】
空観‐空‐②
空諦‐空(唯識)
報身‐空(色即是空)
【中諦の一念三千】‐③
中観‐中
中諦‐中
法身‐中
①の仮観では縁起と無我・無自称を観じて「而二不二」の悟り(仮諦)を得ます。②の空観では五蘊を空じることで「色即是空」の悟り(空諦)を得ます。
この①と②の「仮諦の一念三千」と「空諦の一念三千」は、これまでに詳しく説明して来ましたのでご理解頂けているかと思います。
③の中諦の一念三千(悟りの一念三千)がとても重要で「本門と迹門」、「文上と文底」、「理と事」の一念三千の違いとなってくる所なので次で詳しく説明してまいります。
9.円融の三諦
先に示した凡夫の三諦(空・仮・中)、仏の三諦、悟りの三諦を、報法応の三身にあてはめると「凡夫の三諦」が応身、「仏の三諦」が報身、「悟りの三諦」が法身となります。
肉体を伴った応身のお釈迦様は、蔵教の中で実体に執着する声聞の弟子達に「縁起・無我」を説いて実体からの執着を離れさせます。
菩提樹の下で法華三昧で実体を空じたお釈迦様は、悟りを得て法華経迹門の方便品で十如是を説き、始成正覚の立場で報身の理の一念三千を顕します。
そして法華経の本門で久遠を明かした立場で寿量品の文底で事の一念三千を明かします。
【釈迦の仏の空・仮・中】
実在の釈迦‐仮 縁起・無我
始成の釈迦‐空 方便品(迹門)
久遠の釈迦‐中 寿量品(本門)
このお釈迦様の空・仮・中を「仏の三諦」として「凡夫の三諦」、「仏の三諦」、「悟りの三諦」を方便品の“十如是の三篇読み”で開いてみましょう。
仮諦の一念三千
【凡夫の三諦】 (仮諦読み)
仮観‐仮 (亦有) 相の十如是
仮諦‐仮 (非空) 縁起・無我
応身‐仮 亦有非空(有)の本尊(十界の相)
|____|______|___(実体空間) ←凡夫の国土
空諦の一念三千
【仏の三諦】 (空諦読み)
空観‐空 (亦空) 性の十如是
空諦‐空 (非有) 方便品(譬喩蓮華)
報身‐空 亦空非有(空)の理の一念三千
|____|______|___(非実体空間) ←仏の国土
中諦の一念三千
【悟りの三諦】 (中諦読み)
中観‐中 (亦有亦空) 体の十如是
中諦‐中 (非有非空) 寿量品(当体蓮華)
法身‐中 亦有亦空・非有非空の事の一念三千(南無妙法蓮華経)
(実体、非実体の分別もない空間) ←真如の国土
「十法界は十なれども十如是は一なり 譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是(凡夫の十如是)は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し 仏法界の十如是(仏の十如是)は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体(凡夫の三諦)と用(仏の三諦)と一具にして一体の仏(南無妙法蓮華経)と成る」
『総勘文抄』
10.三因仏性
『御義口伝』の「一大事因縁」の御文を紹介しましたが『総勘文抄』でも次のように御指南あそばされています。
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」
ここで空・仮・中の三諦を「総の三諦」と大聖人様は仰せです。これはその下位に更に三諦が互具している事を意味しています。そしてここで下位の三諦の「三因仏性」にふれられています。
『爾前二乗菩薩不作仏事』の中でも慈覚大師の速証仏位集を引いて、
「又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし、抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもう」
と述べられています。
三因仏性とは、仏となるための三つの要因のことで、正因仏性・了因仏性・縁因仏性をいいます。
正因仏性とは、一切衆生に本来具わっている真如の理のことで、了因仏性とは、正因仏性を自覚する智慧のことです。縁因仏性とは、智慧を発現するための助縁となる善行をいいます。
天台大師はこの三因を摩詞止観において、「応身は縁因、報身は了因、法身は正因より生ずる」と述べて応身・報身・法身の因となるべき仏性であると説明されています。要するに「悟りの空・仮・中」の元となる衆生に備わる仏性です。
法身の因となる正因仏性は真理の面からみると中諦にあたり、それが縁によって仮りに色々な形で現実の姿として表われるので縁因仏性は応身の因となって仮諦となります。正因仏性を覚る了因仏性は、覚りの智慧なので報身の因となって空諦となります。
【悟りの空・仮・中】(総の三諦の中の中身)
仮諦‐縁因仏性
空諦‐了因仏性
中諦‐正因仏性
「悟りの空・仮・中」をこのように三因仏性として空・仮・中を開くと三諦は円融して一念三千の法門は成立します。しかし、迹門ではその三因仏性の実態までは明かされていない為、一念三千の法門と言えどもそれは名ばかりで実態が伴わない「理の一念三千の法門」でしかありません。
【悟りの空・仮・中】(総の三諦の中の中身)
応身‐縁因仏性 (実態が不明)
報身‐了因仏性 一念三千の法門
法身‐正因仏性 (実態が不明)
では縁因仏性の応身は何かというと、仮の定義は「有」であり「実体」であり「色相」です。そして報身の了因仏性の「仏の智慧」を発現するための助縁となる善行ですので、信仰の対象となる「本尊」がそれにあたるかと思います。
法身は姿も形も無い法性真如です。その真如(真理)を人が理解出来るように智慧として働くのが報身です。その報身(智慧)を発現すべき助すけとなる「縁」が応身です。
仏が一大事の因縁により世に出現すると言うのもその「縁」を意味しています。先の『総勘文抄』の、
「善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」
の御文が示す「縁」です。今、仏の空仮中は緑文字で表示しています。総の三諦の空仮中を空(緑文字)仮(黑文字)中(青文字)で示しています。「仏の空・仮・中」の具体的な姿がお釈迦様(仏の「仮」の応身)です。そして今世で悟りを開いた始成正覚のお釈迦様が仏の「空」の報身です。更に久遠実成のお釈迦様が仏の「中」の法身です。
【仏の空・仮・中】(総の三諦の空の中身)
仮‐実在の釈迦 (応身)
空‐始成の釈迦 (報身)
中‐久遠の釈迦 (法身)
では青文字の総の三諦の「悟りの空・仮・中」の仮、3色の仮(応身)の中でも最もグレードの高い青文字の応身、それが三十二相をまとった色相荘厳の仏様です。
しかし、それは経典の中で描かれた象徴としてかりに示された権仏・迹仏であって教相(経典の文字に示された)の本尊でしかありません。
そして「悟りの空・仮・中」の「中」である法身(正因仏性)も迹門では未だ明かされてはおりません。
【悟りの空・仮・中】(総の三諦の中の中身)
応身‐仮 三二相の仏 ←教相の本尊(迹仏)
報身‐空 一念三千の法門
法身‐中
ここ↑がまだ明かされていない
11.本因本果の法門
『十法界事』に次のような御文があります。
「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且(しばら)く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず」
現代語訳は次の通りです。
迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏もすべて今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。
御文の中の「本無今有」とは「本無くして今有る」と読み、現在における結果だけがあってその因が示されていないということです。
今世で初めて仏に成ることを「始成正覚」と言いますが、迹門ではその始成正覚の立場で一念三千の法門が示されています。
仏法では因果を説きます。「因位と果位」でお話したように、因位の修行を積んでその報いとして果位の悟りが得られます。お釈迦様が仏になられた因位は、久遠における菩薩行であってそれは本門に至って初めて語られます。
どうして迹門では因位をかくして果位だけを明かされたのでしょうか。その答えが『寿量品得意抄』に示されています。
「本門寿量品に至つて始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ、因とは修行弟子の位なり、爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」
『寿量品得意抄』
迹門で示された「仏の空・仮・中」はお釈迦様の四教の中で示された四仏の姿で、『一代五時鶏図』に示された、
┌応身───有始有終(蔵)
始成の三身┼報身───有始無終(通)
│├真言大日等 (別)
└法身───無始無終(円)
の仏の三身です。この四仏の中の大日法身について大聖人様は、『法華真言勝劣事』で次のように述べられています。
「いま大日経ならびに諸大乗経で説く「無始無終」は法身の無始無終であり、三身の無始無終ではない。法華経で説く「五百塵点劫」は諸大乗経が破らなかった伽耶城近くで始めて成道したという教えを打ち破った五百塵点劫の成道である。」
応身・報身・法身の三身が共に無始無終であって真実の「仏の空・仮・中」と成りえます。『一代五時鶏図』の始成の三身の隣に久遠実成のお釈迦様の三身の図が次のように示されています。
┌応身┐
久成の三身 ┤報身├──無始無終
└法身┘
迹門で示された始成の三身は、法身だけが無始無終であって三身が無始無終でないので本仏とは言えません。本門でこの久成の三身を示すことで『寿量品得意抄』で仰せのように「四教の因」を打ち破っているのです。
四教の因とは「修行弟子の位なり」と仰せの通り、爾前迹門の教え(修行)のことで、それらを悉く打ち破っているのです。
このように本門で久遠実成を明かして成仏の本因を明かすことで仮の教えとして用いた爾前権教の教えを打ち破る事を「本因本果の法門」と言います。
12.開三顕一
法華経迹門の教説の中心となっているのが「開三顕一」です。「三乗に開いて一仏乗を顕す」といった意味ですが、その開三顕一に略開三顕一と広開三顕一とがあります。
方便品第二の十如実相によって顕わされた「理の一念三千の法門」が略開三顕一にあたります。
略開三顕一で示される十如是は、仏が仏の主観で説いたまさにただ仏と仏のみしか判らないもので、声聞の弟子達は理解出来ずに戸惑います。
そこで弟子達が理解出来るように、弟子の境涯に合わせて三段階に分けて説法を始めます。それが広開三顕一です。
最初に略開三顕一を示してその後に広開三顕一を示されたのは、十如是を三段階(空・仮・中)に開くというお釈迦様の意図が含まれていました。
広開三顕一は、「三周の説法」と言って「法説周・譬説周・因縁周」からなります。
この三つの説法の題名を見て気づくことがあります。
因縁周の因縁は、因が縁によって果を生じる訳で、縁起によって立ち上がる仮の世界観を意味します(衆生世間)。譬説周の譬は、譬えをもって悟らせる仏の智慧を意味します。仏の三身の内の報身の智慧の部分です(空の五陰世間)。法説周の法は「法(真理)」そのものの法身で悟りの国土世間です。
因縁周‐衆生世間‐仮
譬説周‐五陰世間‐空
法説周‐国土世間‐中
そして、三段階に分けられた声聞の弟子達の境涯は、声聞という境涯の中に更に声聞・縁覚・菩薩といった十界が互具するということが示されています(十界互具)。
【声聞の弟子】
因縁周‐声聞の声聞
譬説周‐声聞の縁覚
法説周‐声聞の菩薩
仏の主観で示された「十如是」を法説周(国土世間)・譬説周(五陰世間)・因縁周(衆生世間)で開く(10×3)ことで凡夫の九界と仏の仏界が一つになって十界が成立します(10×10×3)。そしてその十界が更に互具(10×10×10×3)して三千となります。
この横に広がった三千の色相は人によってそれぞれ異なった世界が十如是を軸として立ち上がります。
どうして異なった世界が立ち上がるのかと言えば、縁するものが人それぞれに異なるからです。縁だけではありません。境涯もそれぞれに異なっています。そのそれぞれに異なって立ち上がっている世界を自身を取り巻く世界として認識して意識(第六識)が生じます。その意識が作り出している世界観(欲界)が「仮観」です。
その意識を構成する要素である五陰を空じて、肉体から解脱した仏の世界観(色界)が「空観」です。
蔵教で「縁起」がとかれ、通教で「空観」が説かれ、別教で「中観」が而二不二の真理として説かれます。開三顕一で開かれた蔵教・通教・別教の三乗の教えを円教(法華経)で集約して一仏乗の「仏の空・仮・中」が完成します(三諦)。「仏の空・仮・中」の中身は四教で示されたそれぞれの教主たる四仏です。
【仏の空・仮・中】
蔵教の釈迦(応身)実在の釈迦
通教の釈迦(報身)架空の観音・他自受用身の阿弥陀仏
別教の釈迦(法身)法身の大日
迹門でここまで明かされました。ここでの「仏の空・仮・中」は始成正覚の立場の「始成の三身」で、本門で久遠実成が明かされることで「久成の三身」の立場で一念三千の法門が明かされます。
13.境智の二法
法華経の『見宝塔品第十一』で、大地から巨大な宝塔が出現し空中に留まります。その塔の中に禅座していた多宝如来が、自身の座を半分空けてお釈迦様に譲り、二仏並坐(にぶつびょうざ)して虚空会の儀式が始まります。
この二仏が並んで座っている姿は、「境智の二法」を意味しています。大聖人様は「境智の二法」について『曾谷殿御返事』の中で次のように御指南あそばされています。
「仏になる道は豈(あに)境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず、今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」
「自体顕照」というのは、「自らの体を照らし顕す」という意味で、「境」に照らされて自らの体が智慧として顕われることを境智一如、即ち境智冥合といいます。
『見宝塔品第十一』でお釈迦様と多宝如来が二人並んでお座りになられている姿がまさにその境智冥合を意味している訳ですが、更に深く考察することでもう一つ気づくことがあります。それは何かと言いますと、二仏は同じ仏であっても大きな違いがあるという事です。
お釈迦様は仏です。多宝如来も仏です。なのにかたや「境」でかたや「智」。その違いは何なのか。
仏を真理の側面で顕したのが、
【仏の三諦】(仏の空・仮・中)
仮諦‐「有」の真理
空諦‐「空」の真理
中諦‐「而二不二」の真理
で、悟りの側面が、
【仏の三身】(悟りの空・仮・中)
応身
報身
法身
です。真理を説く人が仏で悟った人が如来ということで、どちらも同じ仏ですが、違いがあります。仏が悟った姿は「始成の三身」です。
【始成の三身】(仏の空・仮・中)
応身‐有始有終
報身‐有始無終
法身‐無始無終
法身だけ↑が無始無終の仏です。それに対して悟った人、即ち悟りの境地から来た人(如来)は、
【久成の三身】(悟りの空・仮・中)
応身‐無始無終
報身‐無始無終
法身‐無始無終
三身が↑無始無終の本仏なのです。
ここまで、大聖人様の御指南を通して空・仮・中の三諦を説明してきましたが、三観・三諦は元は天台智顗が顕したものです。智顗がどのように三観・三諦を論じているのか次に紹介致します。
14.四教義
天台智顗(ちぎ)には、『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』といった、いわゆる「天台三大部」と呼ばれる法華経に関連した注釈書(解説書)があります。
これらは智顗の代表的な著作として良く知られているところですが、その「三大部」以外に智顗が晩年期に晋王広、即ち後の隋朝の第二代皇帝、煬帝に献上した維摩経疏という維摩経の注釈書の一群があります。
『維摩経玄疏』、『維摩経文疏』からなるこの維摩経疏には、天台教学の中でも最も重要な教理である三観・三諦説の最終形態がまとめられた『三観義』、『四教義』も含まれています。
その『維摩経玄疏』巻第二に、『三観義』、『四教義』の内容に相当する「三観解釈」と「四教分別」があります。
その「四教分別」の中で三観と四教の関係が次のように述べられています。
問曰四教從何而起。答曰今明四教。還從前所明三觀而起。爲成三觀。初從假入空觀。具有折體拙巧二種入空不同。從折假入空故有藏教起。從體假入空故有通教起。若約第二從空入假之中。即有別教起。約第三一心中道正觀。即有圓教起。
(T1929_.46.0724a05~10行目まで)
“蔵・通・別・円の四教の教えは何から起こるのか?”という質問に対して、“四教は三観から起こる”と答えています。
この記述に出てくる「従仮入空」「従空入仮」「一心中道」が仮観・空観・中観の三観のことで、仮観(従仮入空観)から蔵教と通教が起こり、空観(従空入仮観)から別教が起こり、中観(中道第一義観)から円教が起きて三観が円融して円融三諦となります。
上記記述にそって説明すると、
最初に出てくる従仮入空観(仮観)とは、析と体という二種類の入空という相違を備えており、まず初めに析仮から空に入るので「析空」を観じて蔵教が起こります。
次に体仮から空に入ることで「体空」を観じて通教が起こり、第二の従空入仮観(空観)を観じることで別教が起こります。
そして第三の一心三観の中道(中観)の正観(第一義諦)に意識を合わせることで円教が起こります。
となるのですが、これをもう少し詳しく説明しますと、従仮入空観の「従仮」は、「仮に従って」ということで意識が「有」の実体思想にある状態を意味します。その「有」である実体を寂滅させて空へ入る教えが蔵教です。
この蔵教が説かれたのは、正法時代で三観・三諦は未だ説かれておらず、竜樹が「真諦」と「俗諦」の二諦説をもとに大乗仏教を展開していました。
空・仮・中の「中」が意味するところは、悟りの領域ですがこの時代、凡夫は仏にはなれないというのが定説でしたので、仮の俗諦と空の真諦の二諦に分けて中道と空を真理として第一義諦としていました。
蔵教は実体思想から完全に抜けきらずにいる声聞の弟子達に対して因縁関係にある師匠のお釈迦様がじきじきに説かれた教えです。しかし実体に強い執着を持っていた声聞達は、空を実体思想で解釈してしまい析空に陥ります。(析仮入空)
それに対して、実体思想から抜け出ることが出来た縁覚(竜樹)は、体空を観じて体仮入空して通教を起こします。
【従仮入空観】(凡夫の空・仮・中)
仮(仮観)俗諦 (蔵教)
空(空観)真諦 (通教)
中(中観)縁起
二番目の従空入仮観(空観)の「従空」は、「空に従って」ということで「有」を完全に寂滅した境地、即ち肉体を伴わない無死退滅の仏の立場を意味します。その「仏の空・仮・中」を像法時代の天台智顗が所観の境(対象とすべき真理)として顕します。
智顗は四教を説く仏の姿から「仏の空・仮・中」を示すのですが、それが別教で説かれる応身の仏(釈迦)、報身の仏(阿弥陀仏)、法身の仏(大日法身)の仏の三身にあたります。
【従空入仮観】(別教)(仏の空・仮・中)
仮(仮諦)釈迦 (応身)
空(空諦)阿弥陀仏(報身)
中(中諦)大日如来(法身)
『摩訶止觀』卷第三上に「此の観は衆生を教化せんが為なることを。真は真には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」(T1911_.46.0024c09)とありまして、仏が衆生を教化せんが為に空を空じて「非空」で有の実在世界に出現します。これが空から仮(有)に入る「従空入仮観」です。従空入仮観で仏の空・仮・中が説かれて別教が起こります。
ここでお気づきかと思いますが、「仮」の従仮入空観、「空」の従空入仮観のそれぞれが更に空・仮・中に互具しています。この「空」「仮」の二観に修行の果として得られる三つの「徳」、即ち法身・般若・解脱の三徳を法身・報身・応身の中観(悟りの空・仮・中)として配列して空・仮・中の三観・三諦は成立します。
『維摩経文疏』巻第二にはこの三観・三諦を別教の菩薩が「別相の三観」として修する旨がしるされています。
三觀之義具如玄文。今更略明三觀之相。三藏既不見眞不須論也。通教三觀但約二諦只成二觀無第三觀。非今答意。今但約別圓以簡三觀則有三種。一別相二通相三一心。一別相者歴別觀三諦。從假入空但得觀眞。尚不觀俗豈得觀中。從空入假但得觀俗亦未觀中。若入中道方得雙照。玄義已具。二通相者則異於此。從假入空非但俗空。眞中亦空。從空入假非但俗假眞中亦然。若入中道非但知中是中。俗眞亦中。是則一空一切空無假中而不空。一假一切假無空中而不假。一中一切中無空假而不中。但以一觀當名解心皆通。雖然此是信解虚通。就觀除疾不無前後。三一心者知一念心不可得不可説。而能圓觀三諦。即此經云一念知一切法是道場成就一切智。故玄義已具。此三三觀初別相的在別教。通相一心的屬圓教。
(T1778_.38.0661c19~662
a06行目まで)
ここでは「従仮入空観」、「従空入仮観」、「中道第一義観」の三観からなる別相の三観が「歴別観三諦」(隔歴の三諦)としてしるされています。
<別相三観(隔歴の三観)>
【従仮入空観】(凡夫の空・仮・中)―――――三観
仮(仮観)俗諦 (蔵教)
空(空観)真諦 (通教)
中(中観)真俗の二諦観
【従空入仮観】(仏の空・仮・中)(別教) ――三諦
仮(仮諦)釈迦 (応身)
空(空諦)阿弥陀仏(報身)
中(中諦)大日如来(法身)
【中道第一義観】(悟りの空・仮・中)――――三身
仮(仮諦)応身
空(空諦)報身
中(中諦)法身
この「別相三観」に対して円教で説かれる「円融の三観」を「通相の三観」といいます。
この通相三観は、上記の説明にあるように一假一切假、一空一切空、一中一切中といったぐあいに凡夫の空・仮・中を仏の空・仮・中で開いて悟りの空・仮・中へ展開し、悟りの三観の仮と空が中に集約して最終的に中道第一義観の法身に円融(まどかに融け合う)します。
<通相三観>
【一假一切假】
仮(凡夫の仮観)
仮(仏の仮諦)
仮(悟りの応身)
「一假一切假 無空中而不假」一仮一切仮、空・中として仮ならざるは無し。※ 全てが仮
【一空一切空】
空(凡夫の空観)
空(仏の空諦)
空(悟りの報身)
「一空一切空 無假中而不空」一空一切空、仮・中として空ならざるは無し。※ 全てが空
【一中一切中】
中(凡夫の中観)
中(仏の中諦)
中(悟りの法身)
「一中一切中 無空假而不中」一中一切中、空・仮として中ならざるは無し。※ 全てが中
この別相三観と通相三観の関係を図に顕すと次に示す三三九諦の図になります。
『三三九諦の図』
15.一心三観
凡夫が仏の智慧を授かることで図のように「凡夫の空・仮・中」が「仏の空・仮・中」で開かれ応身・報身・法身の三身が凡夫の一身に現われます。
では、「通相の三観」で開かれた三観の内容をそれぞれ見てまいりましょう。そこのところも『維摩經玄疏』の中で詳しく述べられています。
今明此一心三觀亦爲三意。一明所觀不思議之境。二明能觀三觀。三明證成。
(T1777_.38.0528c22~24行目まで)
「今、此の一心三観を明かすに、亦た三意と為す。一に所観の不思議の境を明かし、二に能観の三観を明かし、三に証成を明かす。」
一心三観は「所観の不思議の境」と「能観の三観(能観の智)」と「証成」の三つの意味があると述べられています。
一明不思議之觀境者即是一念無明心因縁所生十法界以爲境也。問曰。一人具十法界。次第經無量劫。云何
(T1777_.38.0528c24~26行目まで)
「一に不思議の観境を明かすとは、即ち是れ一念の無明心の因縁もて生ずる所の十法界、以て境と為すなり。」
所観の境とは、一念無明の因縁より生じるところの十法界を対境とするとあります。そして、十法界についての質問に答える形で「十二因縁所成の十法界」には、即空・即仮・即中の三観・三諦の理を含む無量の法がおさまっているものの、三惑によって心が覆われている凡夫は、真実を見て取れないでいるという説明がなされています。
我々人間が認識している現実の世界は、凡夫の無明の一念(真理に暗い迷い心)が因となって十二因縁が生じて立ち上がった仮在の世界観です。
実相(実体)を縁起(空)の角度から説き明かし、ありのままを受け入れる事が苦を滅する第一歩となることが説かれています。
真理に疎(うと)い凡夫の一念(凡夫の空・仮・中)を境(対象)とするのではなく、真理を悟った仏の一念(仏の空・仮・中)を境として三観・三諦の理を起こすことが所観の境だと『維摩經玄疏』の中では述べられています。
私達が朝夕に勤行の中で十如是を三遍繰り返し読んでいるのは、凡夫の無明の一念が因となって立ち上がっている仮在の世界観(凡夫の仮)を打ち払い、真理を悟った仏の心を因として真実の実相(仏の仮)を観じとっていく修行を実は行じているのです。
その十如是の「相」を中心にした仮諦読みは、「一仮一切仮」の即仮を体現している訳ですが、その因となる対象(境)の「相」が仏の十法界の相を顕された十界曼荼羅御本尊にあたります。
【一仮一切仮】(通相三観の仮)
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)亦有非空の従仮(仮観)
※ 全てが仮の即仮
総じて言えば所観の境とは仏の空・仮・中を対境として(ここでは仮を中心に一仮一切仮の)諸法実相を悟るということです。
16.能観の三観
一心三観に含まれる三つの意味の二番目の「能観の三観」について『維摩經玄疏』では次のように説明がなされています。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず。而して能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理を照らす。此れは即ち観行即なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)
まずこの文章の中の「観行即」という用語について説明します。
天台智顗が『摩訶止観』巻一下で、法華経(円教)を修行する者の境地を六つの階位に振り分けた「六即」というものがありまして、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即からなります。
①
理即とは、理の上では衆生はことごとく仏性を備えてはいるものの、未だ正法を聞かず、全く修行の徳がない位をいいます。
②
名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。
③
観行即とは、名字を知ってその教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位をいいます。
④
相似即とは、修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる位をいいます。
⑤
分真即とは、分証即とも言って、真理の一部分を体現している位をいいます。
⑥
究竟即とは、完全なる覚りに到達している位をいいます。
能観はこの六即の中の三番目の観行即にあたるということで、己心に仏性を観じとる階位にあたります。
仏性を観じとるとは具体的にどういうことかと言いますと、仏性は仏の「性」で、十如是で言うところの「性」にあたります。我々凡夫は凡夫の空・仮・中の「空」、即ち無明の一念の心を起点として判断し、そして行動を起こします。ですから自身に競い起こる全ての事象は全て自身の心が因となって生じたものなのです。(心から生ずると書いて性)
人間が視覚的に認識するさま(色相)を「相」というのですが、先ほど説明しました「所観の境」は、その相を中心とした「仮諦」のお話でした。凡夫が凡夫の心で認識している仮在の相を「仮観」といい、仏の心に照らされて顕れる真実の相を「仮諦」といいます。
それに対し「空」は、仏性を心で観じとっていく心を中心にした観法で、具体的に言えば、その仏性、即ち仏の心とは「衆生を迷いの暗闇から救いたい」という仏の深い慈悲の一念です。
その慈悲の一念が「一大事の因縁」となって衆生の住む実在の世界に仏は出現します。それがお釈迦様です。
仏法の世界観は欲界・色界・無色界からなることは先にお話ししました。この三界の仏法的解釈は、
欲界 =欲にとらわれた衆生が六道輪廻する世界。(凡夫)
色界 =欲を離れてはいるが因縁によっては肉体が生じる物質的条件が未だ残る世界。聖人が住むとされる天上界。(仏)
無色界=欲望も物質的条件も超越した姿も形も存在しない真理(悟り)のみが存在する真如。(如来)
とありますように、仏は実在の「有」から解脱した「空」の天上界を住処としています。その空を破して「非空」で有の実在の世界に出現するわけですが、これは「方便」なのです。
非空という方便を使ってかりに「有」の世界に現れるわけで、方便(非空)で用いた「有」を払えば再び「非有」の「空」の世界に戻ります。
しかしなぜ「空」ではなく「非有」と表現するかと言いますと、方便として「有」を滅しているという意味がそこには含まれているのです。我々が朝夕に唱える自我偈の中に、
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
というくだりがありますが、その意味は次のようになります。
「人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。」
自我偈の前に読む方便品では、先ほど説明しました「仮」の真理である「諸法実相」をお釈迦様が声聞の弟子である舎利弗に諭している様子が述べられています。この方便品を読誦している時は、仏の空・仮・中の仮諦を体現しています。
そしてここ自我偈の読誦は、我々凡夫が仏の「空」を自らの心に観じとっていくところなのです。十如是で言えば「性」を中心にして読む番の空諦読みの十如是です。
17.長者窮子の譬
仏は方便を用いて「有」の実体の世界に現れ、方便を取り払って空の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、有(実体)を完全に寂滅して「空」に入ろうとします。それが析空(灰身滅智)です。
しかし空を方便として滅する「非空」という仏の空観を観じることで、有を滅することなく有(俗諦)を空(真諦)へと転換することが出来るのです。それが煩悩を菩提へと転じる「煩悩即菩提」の悟りです。
『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。
「此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」⑦
(仏は非空から仮に入るから従空入空観という。)
「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。」⑧
(凡夫の空・仮・中は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)
「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う。」⑨
(仏の空・仮・中は非空(有)から非有(空)へ入空観する。)
從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空⑦。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法⑧。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法⑨。破用既均異時相望故言平等也。
(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで)
仏は方便として有を用いる(非空)のですが、さらに用いた有を破して空に入ります(非有)。その仏の空観を観じた凡夫は、本来なら従仮入空観で「有を破して空に入る」ところを「(方便として)有を破して(方便の)空に入る(非有)」に転じることで、有を滅することなく方便として空に入る「非有」の従空入仮観を観じます。
【一空一切空】
空(凡夫の空観)亦空 従仮入空
空(仏の空観) 非有 従空入仮
空(悟りの空観)非有非空
この意味するところが先に紹介しました『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」についての説明文にあたります。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(真実の仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(悟りの空・仮の非有・非空)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空観)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)
これが具体的にどういう事かと言いますと、今世で身を滅して天上界へ転生する(灰身滅智)しかなかった凡夫が、今世で方便として空へ入る事が出来るということです。(凡夫も仏に成ることが出来るということ)
しかし、「方便として空へ入る(非有)」となると、その前提に破するべき方便としての有(非空)がある訳です。分かりにくい表現なので例えてお話ししましょう。
不幸な境遇に生まれてきた子供がいたとしましょう。不幸な境遇というのが実在の「有」です。「有を滅して空に入る」には、不幸な境遇という事実を打ち消すか、そういった感情を完全に寂滅させるしかありません。
ですがその事実を方便と受け止めるとどうなるでしょう。
意味があって不幸な境遇に生まれてきたのであってその意味を分かっていないから悩み苦しんでいるのです。不幸な境遇は何かを成す為の方便の姿であってその真意を悟った時、不幸な境遇も苦では無くなるのです。その意味(真理)を観じとるのが非空の有から入る非有の仏の従空入仮観(仏の空観)です。これが凡夫が仏の智慧をかりて悟りを得るという「煩悩即菩提」の理です。
この例えから何か思い浮かびませんか。そうです『法華経』の三周の説法の中の「信解品第四」の中で語られる「長者窮子の譬(ちょうじゃぐうじのたとえ)」です。
ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子(困窮しきった人物)が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。
この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。
『ウィキペディア』より
ここまで「所観の境」と「能観の三観」を説明してきました。
所観が相を中心にした色相の「仮観」で能観が心を中心にした「空観」です。
【一仮一切仮】(所観の境)
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)非空亦有の従仮(仮観)
(全てが仮の即仮)
【一空一切空】(能観の三観)
空(凡夫の空観)亦空
空(仏の空観) 非有(空)
空(悟りの空観)非有亦空の従空(空観)
所観・能観の「能所」の意味は、「例えば依り手を能依、依り所となるもの(依られ手)を所依、物を見る目は能見、見られるものは所見、行ずる者は能行、行われる内容は所行、帰依する者は能帰、帰依されるものは所帰」というような関係になります。
18.証成
一心三観に含まれる三つ目の意味は、修行の果として得られる証(あかし)から成る「証成」です。修行者は次のような修行の果徳を身体に得ると智顗は述べています。
三明證成者。若證一心三觀。即是一心三智五眼也。若得六根清淨名相似證即十信位也。若發眞無漏名分證眞實即即是初住也。
(T1777_.38.0529a15~18行目まで)
「証成を明らかにするとして、一心三観を証する(体得する)とは、一心の三智・五眼を得ることで、もし六根清浄を得るならば六即の第四位の相似即を得た証で仏の五十二位の十信の位にあたり、真無漏を生ずれば六即の第五位の分真即を得たことになり、これは五十二位の中の第11位、十住の初め即ち初住を得たことになります。」
三智とは、
①一切智‐声聞・縁覚の智慧。
②道種智‐菩薩の智慧。
③一切種智‐仏の智慧。
の三つの智慧のことで、別教ではこの三智を順次に証得すると説き、円教では三智を同時に一心に証得すると説きます。
五眼の内容は、
①‐人間が所有している肉眼 (にくげん) 。
②‐色界の天人が所有している天眼 (てんげん) 。
③‐声聞・縁覚の人が一切の現象は空であると見抜くことのできる慧眼 (えげん) 。
④‐菩薩が衆生を救うために一切の法門を照見するところの法眼 (ほうげん) 。
⑤‐仏が所有している,前記の四眼をすべてそなえた仏眼 (ぶつげん) 。
で、「六根清浄」は、九識の中の第六識までの人が意識を形成する認識器官の眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)・舌根(味覚)・身根(触覚)・意根(意識)の六根が浄化されて清らかになることをいいます。
「仏の五十二位」は、仏に至るまでの52位の悟りの位のことで、
十信‐1段目~10段目の悟り。
十住‐11段目~20段目の悟り。
十行‐21段目~30段目の悟り。
十廻向‐31段目~40段目の悟り。
十地‐41段目~50段目の悟り。
等覚‐51段目の悟り。仏の悟りに等しい事から等覚と言われる。
妙覚‐52段目の悟り。仏、仏陀、正覚。
から成ります。ここでは一心三観を体得することで六根清浄を得ることで「相似即」の階位に至り、仏の覚りに相似した智慧を得たとして十信を得るとしています。
真無漏は、全ての執着を取り払い、心の中が真に解放された状態をいい、真無漏を生ずることで仏の真理の一部分を体現しているとして「分真即」の階位に至って十住の初め、11段目の初住の悟りを得るとしています。
19.平等
天台智顗は一心三観の内容として「所観の境」と「能観の三観」と「証成」の三つを提示していますが、それらの内容を統括していくと一心三観の意味するところが明らかになってきます。
まず、維摩経疏の『三観義』、『四教義』の内容から天台智顗の三諦と三乗が次のような関係にあることが分かります。
仮‐未だ実体(有)思想の声聞
空‐空を悟った縁覚
中‐不二を悟った菩薩
この仮(声聞)・空(縁覚)・中(菩薩)に開かれた三乗を一仏乗に集約して一心三観が完成します。三観が一つに集約することで一仏乗の仏の境地が顕れるということです。
しかもそれが時間をおって順次に一つに集約されていくのでは無く、一時に同時に三観・三諦が一心に顕れて生身の仏の体となるのですが、ここで重要なポイントとなるのが「時間」です。
実は話がややこしくなるので先ほどは取り上げませんでしたが、「17.長者窮子の譬」のところで提示した『摩訶止觀』卷第三上の、
『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。
「此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」⑦
(仏は非空から仮に入るから従空入空観という。)
「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。」⑧
(凡夫の空・仮・中は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)
「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う。」⑨
(仏の空・仮・中の三観は非空(有)から非有(空)へ入空観する。)
從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空⑦。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法⑧。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法⑨。破用既均異時相望故言平等也。
(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで)
の箇所ですが、よく見ると「平等」という文字がやたら飛び交っていることに気づかれるかと思います。
これは何を言っているのかと言いますと、「破用不等」と「破用平等」の説明がここでなされているのです。どういう説明かといいますと、別相の三観の凡夫の空・仮・中(従仮入空観)は、
【凡夫の空・仮・中】(仮観)
仮‐亦有(俗諦を用う)
空‐亦空(俗諦を滅して真諦を用う)従仮入空
中‐亦有亦空
俗諦と真諦は裏表の関係で、一方を用いれば一方は滅する亦有亦空の関係になります。亦有亦空は「やくうやっくう」と読みますが字の意味は「またわ」です。「またわ有またわ空」といった意味で両方が同時に表となることはありません。
俗諦を破して真諦を用いるので破用が平等ではありませんので破用不等です。(故に竜樹は真俗の二諦観とした)
これに対して別相の仏の空・仮・中(従空入仮観)は、肉体(実体)から完全に解脱している仏は「空」が基本体なので、正確には空からはじまります。
【仏の空・仮・中】(空観)
空‐非有(有を滅っしている‐天界)
仮‐非空(滅した有を方便として用いて仮に入る)従空入仮
中‐非有非空
有を破して天界に入り、破した有を方便として用いて仮(有)に入るのでどちらも「有」を用いているので破用平等となります。
凡夫の空・仮・中がコインの裏表のように俗諦(有)と真諦(空)、どちらか片面しか現れないのに対して仏の空・仮・中は、「空・仮」が破用平等なので裏表の関係ではなく同じ面に同時に顕れます。
『維摩経玄疏』の中でも同じような説明がなされています。
次釋從空入假觀者。若不住空還入幻化。假名世諦分別無滯。即是從空入假觀也。 而言平等者。若前破俗用眞不名平等。此觀破用等故名平等也。
(維摩経玄疏巻二 T1777_.38.0525b29~c04行目まで)
「次に従空入仮観を釈すれば、若し空に住せざれば、還た幻化に入る。仮りに(方便として)世諦と名づけ、分別して滞ること無き、即ち是れ従空入仮観(空から入る仮観)なり。而して平等と言う者は、前の若(ごと)き(凡夫の三観のこと)は俗を破して眞を用いるのみなれば平等と名づけず。此の観(仏の三観のこと)は破用等しければ平等と名づくるなり。」
破用不等と破用平等の関係が分かったところでもう一度先ほどの『摩訶止觀』卷第三上の
從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空。分別藥病而無差謬故言入假。平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法。破用既均異時相望故言平等也。
の箇所をはしょらずに訳すると次のようになり、『維摩経玄疏』の説明とほぼ同じ内容を述べていることが分かります。
「従空入仮をば平等観と名づくる者は、若し是れ空に入らば、尚お空の有とす可きすら無し、何の仮か入る可けん。当に知るべし、此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。薬病を分別して而して差謬無し、故に入仮と言う。平等なる者は、前に望んで平等と称するなり、前観は仮病を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。一を破して一を破せざれば未だ平等とは為さず。後観は空病を破して還た仮法を用う。破用既に均しければ異時に相い望む、故に平等と言うなり。」
この文章は破用不等と破用平等の関係を説明しながら、仏は方便として「有」をもちいて世に出現するという意味も含み、かつ最後に更に気になる言葉を織り込んできています。
「破用既に均しければ異時に相い望む」
仏の従空入仮観は、平等ではあるが異時に相い望むということで、同じ面に「空・仮」が顕れるがそれは同時にではなく異時に顕れるということです。
異時では一心即三観とはなりえません。
20.時間
先ほど「破用不等」と「破用平等」の関係を分かりやすくコインの裏表の関係に例えましたが、実はここにも深い意味が含まれています。
コインの裏表の関係は、実は生死の関係を意味しているのです。
肉体を寂滅すること(無死退滅)でしか真諦へ入れなかった「破用不等」を非有・非空の方便を用いたことで、有生出在の生の側面に「破用平等」で入空し、仏の空を観じとっていきます。
そこのところを『維摩経文疏』の別相三観の中道第一義觀の説明にそって解説していきます。
若修此觀還用前二觀雙忘雙照之方便也。雙忘方便者。初觀知俗非俗。即是俗空。次觀知眞非眞。即是眞空。忘俗非俗忘眞非眞。非眞非俗即是中道。
(T1777_.38.0528b03~6行目まで)
若し此の観(仏の空・仮・中)を修せば、還た前の二観を用いて双忘双照の方便とす。双忘の方便なる者は、初観に俗は俗に非ず(非有)と知る、即ち是れ俗空なり。次観に眞は眞に非ず(非空)と知る。即ち是れ眞空なり。俗を忘ずるは非俗(非有)、眞を忘ずるは非眞(非空)にして、非眞非俗(非有非空)なる即ち是れ中道なり。
還った前の凡夫の空・仮を用いてということですので、まず凡夫は実体の世界①に身を置いているので俗を滅して「仮」から真諦の「空」へ「従仮入空」②で空に入ります。
この時、析仮入空してしまうと灰身滅智して身を灰にすると同時に法界に含まれる智までも焼き尽くしてしまい完全に無に帰してしまいます。
【凡夫の空・仮・中】
仮‐俗諦(俗を用う)①
空‐真諦(俗を滅して真を用う)破用不等 従仮入空②(※体仮入空)
中‐亦有亦空
「還た前の二観」とはこの「従仮入空②」の空・仮の二観のことで、それを用いて「双忘双照の方便」とする訳ですが、まず「双忘の方便」とは、最初の仏の空・仮・中の③空観、なぜ空が最初に来るのかと言えば、仏は空が立ち位置だからです。
【仏の空・仮・中】空諦⑨
③空‐非有(方便として有を滅する)④俗空
⑤仮‐非空(方便として滅した有を用う)破用平等 従空入仮⑥
⑦中‐非有非空⑧
①仮から従仮入空②で空観③に入った凡夫が「俗は俗に非ず」即ち「非有」という方便を用いて④俗空(方便の空)を観じます。
「俗は俗に非ず(方便として有を滅している)と知る、即ち是れ④俗空なり」
そして仏の空・仮・中の「④俗空」から今度は、眞は眞に非ずの「非空」の方便を用いて次観の仏の「⑤仮」に従空入仮⑥して仏の「空・仮」を観じることで仏の中観⑦に入って「非有非空⑧」の真の空(総の三諦の仏の空諦⑨)を観じます。
「眞は眞に非ず(方便として滅した有を用いている⑤)と知る。即ち是れ眞空なり⑨。」
「双忘」とは、このように「非有」と「非空」の二つの破を用いることをいいます。「双照」は、この二つが裏表の関係ではなく「非有」を用いると同様に「非空」も用いるので二つが共に方便という同じ面で照らされるというのが「双忘双照の方便とす」の意味です。
別相の三観はこの後、総の三諦の中諦(悟りの空・仮・中)に入っていくのですが、
【悟りの空・仮・中】(別相の中諦)
仮‐亦有亦空 (凡夫の中)
空‐非有非空 (仏の中)
中‐亦有亦空・非有非空
この構成は通相三観の「一中一切中」の構成と全く同じ内容になります。
【一中一切中】(通相の中諦)
中‐亦有亦空 (凡夫の中)
中‐非有非空 (仏の中)
中‐亦有亦空・非有非空
「別相の中諦」も「通相の中諦」もどちらも一時平等の三諦です。しかし、そこに至るまでのそれぞれの過程は、次のようになります。
<別相の三観>
別相の仮諦‐破用不等
別相の空諦‐破用平等(異時平等)
別相の中諦‐破用平等(一時平等)
<通相の三観>
通相の仮‐一仮一切仮(一時平等)
通相の空‐一空一切空(一時平等)
通相の中‐一中一切中(一時平等)
この構図何かと同じだと思いませんか。
┌応身───有始有終(蔵)
始成の三身┼報身───有始無終(通)
│├真言大日等 (別)
└法身───無始無終(円)
┌応身┐
久成の三身 ┤報身├──無始無終 (法華経)
└法身┘
重要なポイントとなる「時間」が意味する事とはこういうことなのです。
21.無始無終
この「別相三観」と「通相三観」の比較図が、何を意味しているのかといえば、始成正覚と久成実成の違いです。言いかえれば今世で悟りを開いた仏と、悟りの境地から来た如来の違いです。
今世で最終的に無始無終の仏に成ったお釈迦様は、法身だけが無始無終の仏です。対して応身・報身・法身の三身如来の「悟りの空・仮・中」は、三身がともに無始無終です。法身だけが無始無終であるのと三身がともに無始無終なのとでは、何が違ってくるのか。それは「通相三観」に展開した時にその違いが明らかとなります。
<通相の三観>
【一仮一切仮】
仮 凡夫の仮
仮 仏の仮
仮 応身 無始無終
【一空一切空】
空 凡夫の空
空 仏の空
空 報身 無始無終
【一中一切中】
中 凡夫の中
中 仏の中
中 法身 無始無終
三身が共に無始無終でなければ今一瞬の一念に三身が同時に顕れないのです。別相の隔歴の三諦は次第三観とも言いまして、仮諦から空諦、空諦から中諦へと順をおって次第に悟りを得て最終的に中諦の悟りの法身を観じとって仏の境地に入ります。
<別相の三観>
【仮観】‐破用不等
凡夫の仮→空→中
↓
【空諦】‐破用平等(異時平等)
仏の空→仮→中
↓
【中諦】‐破用平等(一時平等)
悟りの仮→空→中
このように最終的に中諦で一時平等と成って無始無終の仏となるのですが、この最終段階に辿り着くには気の遠くなるような歴劫修行を要します。どこかで聞いたようなフレーズですね。
法華経 第一章「迹 門」で仏法が後の五百歳(2500年)という長い時代の流れの中で、蔵教・通教・別教・円教といった順に、最初は分かりやすい教えから次第に高度な教えと説き明かされ、衆生を導いていったお話しをしました。
「五時八教」に即した話しの中で、気の遠くなるような歴劫修行の果てにようやく辿り着いたのが隔歴の三諦なるが故の「厭離断九の仏」でした。ここで今いうところの歴劫修行もまさにそれです。
第一章「迹 門」では時代の流れの中で示されていった、教相という教えのありようを通して、一念三千を横にずら~と広げて語ってきました。
ここでは三観・三諦といった悟りの側面から、一念三千の法門をお話ししています。
今回は横にずら~と話しを広げるのではなく、「凡夫の心」、「仏の心」、「悟りの心」といった心を中心に今一瞬の一念の心がどのように顕れ変化ていくのかを縦に一念を三千に膨らませて一念三千の法門をお話ししてきました。
その一念三千の法門の最後に辿り着くところが中諦の「悟りの空・仮・中」です。しかしその三諦の実態が何なのか、
【凡夫の空・仮・中】竜樹と世親が詳しく明かす
仮観‐俗諦(有)
空観‐真諦(空)
中観‐中道(亦有亦空)
【仏の空・仮・中】天台智顗が詳しく明かす
仮諦‐非空
空諦‐非有
中諦‐非有非空
【悟りの空・仮・中】↓この部分!
応身‐縁因仏性
報身‐了因仏性
法身‐正因仏性
天台智顗は、この中諦(中道第一義諦)の内容を「証成」という果徳を示すだけでその実態については三因仏性とするだけでその具体的な内容(実態)には一切触れておりません。
それは智顗には法の付属がなかったからです。末法の時代に入って法の付属を受けられた大聖人様がそこのところを詳しく明かされていきます。
智顗は、実態を明かしこそはしなかったものの、次のような言葉でそれを表現しています。
「それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す」
(『摩訶止観』第七章「正修止観章」より)
22.月こそ心、花こそ心
『摩訶止観』第七章「正修止観章」の智顗の言葉を解説致します。
まず最初の、
「それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り」
の文句は、一念から生じる実相の話で「所観の境」でお話ししました「一念無明の因縁より生じるところの十法界」のことです。さらに「能観の三観」の心から生じる相を、
「若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし」
と論じ、八相が何の八相を指して言われているのかは、この文章だけでは判断しかねますが(おそらく釈迦の八相でしょう)、言わんとすることは、物の相は変化するものであり、変化することなく永遠に留まる相は無いということです。
その物が、相があるから物として認識されるのか。物があるからそれに応じて相が顕れるのか。
また、相があるから変化を認識するのか。変化するから相を認識できるのか。という人が物を認識する論理を語っています。
心から相は生じますが、その心、一心は物よりも前に起こるのか、それとも物が先にあって後に心が生じるのかというお話です。
そのことを大聖人様がとても分かり易い例えで御指南あそばされている御書があるので紹介します。
「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし 草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず 心即ち大地 大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし 心のきよきは花のごとし、法華経はしからず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり」
『白米一俵御書』の一説です。
蔵教では、「心から万法を生ずる」といった説き方をします。ここでいう万法とは、因果と縁起のことで、最初に因があってそれが縁によって最終的に結果が生じるといった時間的流れに則った法理(声聞の悟り)です。それはちょうど「大地から時間をかけて草木が茂っていく」ようなものです。
しかし法華経はそうではなく、「大地が即草木であり草木が即大地である」と説きます。
これは因と果が異時ではなく同時に存在するという法華経でしか説かれていない当体蓮華の法理を端的な言葉で言い表しています。
また心を中心に説く通教では「心が澄むのは月のようである。心が清いのは花のようである」と説きます。
これは譬えであり譬えを説くのは通教が得意とするところです。澄んだ清らかな心が示すもの、それは縁覚の悟り「色即是空」です。
しかし、どちらの譬えも心と月、心と花といったように心と物が分別によって対比され区別されています。
それに対し無分別の法を説く法華経は、「月こそ心、花こそ心」と、月も花も自身の心そのものであると説きます。これを「不二の法門」とも「而二不二(ににふに)」の真理ともいいます。
この真理を悟った境涯が菩薩です。空・仮・中の三観・三諦で言えば中道第一義諦、ここでは「悟りの空・仮・中」と表現してきましたが三諦の中の「中諦」にあたります。
一心三観は別相を通相で三観を開いて、開いた一仮一切仮を所観の境、即ち声聞の悟り(仮諦)とし、一空一切空を能観の三観、即ち縁覚の悟り(空諦)として、次のような関係になります。
【一仮一切仮】(所観の境)相 声聞の智慧
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)非空亦有の従仮(仮観)
※ 仮(実体)に即した真理(因果・縁起・相の十如是)
【一空一切空】(能観の三観)性 縁覚の智慧
空(凡夫の空観)亦空
空(仏の空観) 非有
空(悟りの報身)非有亦空の従空(空観)
※ 空(非実体)に即した真理(色即是空・性の十如是)
これらの悟りを得た証として一中一切中の(証成の)三身が身体に徳として体現されます(中諦)。
【一中一切中】(証成の三観)体 菩薩の智慧
中‐応身(仮諦の一念三千)亦有亦空 声聞の智慧
中‐報身(空諦の一念三千)非有非空 縁覚の智慧
中‐法身(中諦の一念三千)亦有亦空・非有亦空(中観)
※ 体(当体)に即した真理(当体蓮華・体の十如是)
「相」から生じる十如是は、因果と縁起の法理からなる三千の差別の色相が、一時に横に広がって実在の世界を立ち上げる、実体に即した仮諦の一念三千です。
また心から生じる「性」の十如是は、縦に三千に変幻する今一瞬の心をとらえた一念三千で、こちらは三千の異なる色相が横に同時に幾重にも顕れてくるのではなく、縦に三千に変幻する心が、今一瞬の一念の心となって十如是が働き、心から生じる空諦の一念三千が顕れてきます。
心は常にただ一つの一念(空諦の一念三千)で、その一念から生じる十如是が三千の異なる衆生の心の色相となって横一杯に広がって今現在の自身を取り巻く世界(仮諦の一念三千)が立ち上がってきます(亦有亦空)。
そのことを智顗は、
「もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。」
と表現しています。そして、先ほどの「物と相の関係」に示すように物があるから心が生じるのではなく、心があるから物の相を認識するわけでもない。それを縦に非ず、横に非ず(非有非空)、また前に非ず後ろに非ず(異時ではなく一時に)物も心も全てが同時に同体で存在しているというのが、次の表現です。
「縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す」
同時に同体で存在していると私は書きましたが、智顗が不可思議境と言ったこの心の法は、まず時間の流れが存在しない空間であることは間違いありません。なぜなら「無始無終」とは、生じることも無く、滅することも無い、といった意味ですからそこには実体は存在しません。
また、実体が存在しない空間に於いては時間の流れも存在しえません。そのような次元において同時とか同体といった表現が成り立つものでしょうか。
言葉では表現しかねるが故に「不可思議境」と智顗はいったのでしょう。
お釈迦さも弟子である舎利弗に「言葉では言い尽くせない」と言った仏と仏にしか分かりえない真如(真理)があるのです。
ですからお釈迦様は仏と同等の悟りを既に得ている等覚の菩薩である地涌の菩薩を久遠より呼び出だしてその究極の真理の法を付属します。
法華経 第二章「円融三諦」 完
令和3年1月23日
法介