七識までの識層は死とともにその働きを停止しますが、人が死んで肉体が滅びて尚、存在する意識それが七識よりも深いところにある八識のアラヤ識(阿頼耶識)です。「無没識」とも呼ばれるこの八識は、臨死体験や前世療法で感じられるところの意識です。
また「一切種子識」とも言われ人間が生きている間に行ってきた行為が、この八識において「種子」となって蓄積されていきます。この一切種子識に特に重悪な因(謗法の罪)を刻んでしまった人は、六根にまで影響を及ぼしてしまい、生まれながらにして感覚器官に障害を負ってしまうこともあると考えられています。
つまりこの八識(一切種子識、無没識)によって、因果律に基づく輪廻転生がおこなわれていきます。我々がよく口にする「宿業」が刻まれている意識層がまさにここです。
自我意識が潜む七識よりも更に深い意識層であるこの八識では自我が存在しないので自他の分別も生じません。自他の分別が生じないのでここでの意識は共有されるとも言われています。
以下は死後の世界に関する「私の考察」です。
人間生きている間は自身の五陰世間が存在しますので自身の肉体がベースとなって様々な外界の情報を感じ取って生きています。しかし、死後も意識が存在するのであるのならば、その意識(八識)はいったい何をもって意識として存在しているのかと考えた時、例えば病院で死にかけて助かった人の話(臨死体験)などでよく聞く話が、「肉体から自身が抜け出して手術台で手当てを受けている自分の姿を客観的に見た」といった話です。
私が思うにこれはその場にいた自分以外の意識、例えば看護師や医師の意識(五陰)を感じ取ったのではないかと考えるのです。
死後も意識が存在するということは、なにかしらの情報をキャッチするベースがないと意識の変化はおきません。自殺した人が自縛霊となって苦しみ続けるとか言いますが、自分の五陰が消滅するわけですので、苦しみの状態のまま、意識が変化出来ないままに苦しみ続けると言う事になります。
そのように死んだ人は何を持って意識として存在しているのかと考えた時、『忘持経事 』の御書の一節が浮かんできました。
「御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝し、歓喜身に余り、心の苦しみ忽ち息む。 我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」