お釈迦様の時代は、古くからのバラモンの教え(ヒンドゥー教)によって「バラモンは、前世もバラモンであり来世もバラモンだ」とするカーストによる階級制度がひかれており、その階級が永遠に輪廻転生を繰り返すという考え方(常見)が強く根付いていました。
そういったバラモンの教えに対し、「人間は死んだら一切無で輪廻転生などしない」とする学説(断見)を提唱して盛んに対抗した六人の非バラモン思想の自由思想家(六師外道)が現われます。
それに対しお釈迦様は、この「断見と常見」を否定し、運命のままに生きれば輪廻転生を繰り返すが修行によって解脱することができると説いてカーストを否定します。
このような「断見や常見」といった考え方は「モノの有・無」といった極端な考え方であってお釈迦様はその二辺から離れて「世の中は全てが縁によって生じる」といった〝縁起〟を真理として〝中道〟を説きます。
人間という存在は五蘊が仮に和合して顕れた姿(衆生)であって、恒常不滅なる〝自我〟は存在しないとしてお釈迦様は縁起による〝無我〟を説くのですが、「モノの有る無し」で考える〝実体思想〟から抜けきらなかったお釈迦様の当時の弟子達は、〝無我〟を実体思想で理解してしまいます。
「モノの有る無し」の考え方(世間一般法)は、有と見れば〝常見〟、無しと見れば〝断見〟ですが仏法では〝縁起〟で考えます。
<モノの考え方>
世間法=モノの有無
仏法=縁起
阿含経で詳しく説かれるこの〝縁起〟は、十二縁起を基とする縁起なので弟子達はその縁起を実体思想(モノの有る無し)で理解します。
「モノの有る無し」で縁起を考えると、「肉体があるから煩悩が生じる」という発想になって「因となる肉体を滅すれば果となる煩悩を完全に寂滅出来る」という考えから肉体の寂滅を目指し過酷な修行が小乗仏教の中で展開され灰身滅智(身を灰にし智をも滅する)に陥ります。