5-6 還滅の縁起

 竜樹が阿含経よりも更に難解な般若心経を解明して〝中論〟を顕したことで、お釈迦様が説いた「縁起と無我」は、「空と無自性」という更に一段深まった真理へと進みます。

 小乗では縁起を「我=無」とした訳ですが、竜樹が大乗として顕した空は、我(自身の生命)にとどまらず法も含めた全ての事物が本質を持たない存在であるとして無我に対して無自性としました。

  無我=自身の生命
  無自性=法も含めた全ての事物は本質を持たない

 本質とは「それ自体が単独で存在する」「変わらずにあり続ける」といった「そのモノがそのモノたりえる性質」です。縁によって全ては変化しながら生じる訳ですから、生じたもの全ては無自性として仮在します。仮在と表現するのは、縁が変わればそのモノの有り様もまた変わってきますので仮に存在していると見るからです。

 自性とは直訳すれば「自己自身の存在」ですが、竜樹の中論15章によると次のような定義になります。

  自性は条件や原因なしで存在する。
  自性はつくられたものではない。
  縁自性は他に依存しない。

 もしそのような自性があるとすれば、その存在は無条件に成立していることになり、当然、自性は「常住かつ不変不滅」ということになります。

 自性があれば消滅することがない。(空七十論16)

 よって永遠不滅の存在は自性を認めることになり、お釈迦様が説いた縁起は成立しません。この竜樹の理論が理解出来ない大乗宗派では、涅槃に入ることで永遠不滅の存在を認めるというのですが、それでは縁起は真理とは呼べなくなってしまいます。涅槃においても縁起は縁起なのです。なぜなら縁起は真理(涅槃)なのですから。

  流転の縁起と還滅の縁起の話に戻ります。大聖人様はこの二種の縁起について『御義口伝巻下』の中の「第三鬼子母神の事」で次のように述べられています。

「御義口伝に云く鬼とは父なり子とは十羅刹女なり母とは伽利帝母なり、逆次に次第する時は神とは九識なり母とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり、流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり、仍つて十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり、三宝荒神とは十羅刹女の事なり所謂飢渇神・貪欲神・障碍神なり、今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり荒神とは法華不信の人なり法華経の行者の前にては守護神なり云云」

 ここで言う、「流転門の時は悪鬼なり」の〝流転門〟が流転の縁起のことです。実体に即した(仮)流転の縁起で顕れる姿(仮在)は悪鬼であるが、「還滅門の時は善鬼なり」と、(五蘊皆空で)空観に入って還滅の縁起(心の変化)で顕れる姿は善鬼である。そして「十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり」悟りの中諦の真如として顕れる姿は、鬼子母神十羅刹女であるとの御指南です。

 この御文から次の事が明らかになります。

  仮の真理(縁起)=流転の縁起
  空の真理(縁起)=還滅の縁起
  中の真理(縁起)=因果具時の縁起

  そして空・仮・中のそれぞれが一念三千しますので、

  仮の縁起=仮諦の一念三千
  空の縁起=空諦の一念三千
  中の縁起=中諦の一念三千

 となります。この空・仮・中の三諦が南無妙法蓮華経で円融して三身如来が凡夫の一身に顕れて涅槃の悟りの境地に入ります。これを即身成仏といいます。

 ここのところ(三身即一)を説明しだすとまた長くなりますので、それはまた別の機会にお話しさせて頂きます。

「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり 十界を形と為すは応身なり 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり 身土不二なり 一仏の身体なるを以て寂光土と云う」

『三世諸仏総勘文教相廃立』

尚、流転の縁起と還滅の縁起は、こちらの論文で竜樹の『根本中頌』をもとに詳しく考察されておりますので興味のある方はご覧ください。
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BK/0021/BK00210L001.pdf


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